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損得勘定で考えても神や来世の存在を信じた方が得である理由

神を信じる理由を損得勘定で考えることが許されることなのか些か気おくれしてしまうが、神はすべてを許したもう存在であるので、失礼は承知で書いていく。

神や霊魂の存在となると、それが五感では捉えることができないが故に、存在証明が不可能であり、それを理由に無神論になってしまう人間も少なくない。

本当にいるのか分からない存在を信じるなんて馬鹿馬鹿しいというのが無神論者の言い分だろう。

しかし、本当にいるのかいないのか分からないこそ、神の存在を信じるべきなのである。

単純なこと―もし本当に存在していたら?

神の存在を信じるべき理由は単純である。

それは「もし本当に存在していたら?」と仮定することで明らかになる。

神を信じる人間は、悔い改める習慣を持っている人間である。

未熟な自分の精神を高めようと努力しつつ、神に救いを求める人間である。

これに対して無神論者は、神や来世の存在を信じていないので、この世が全てであり、今さえ良ければそれでいいので、信仰心のある人間のように悔い改めたり、精神の向上を求めることはない。(何故この世しか存在しないのに、精神を磨く必要があるのだ?)

故に、無信仰の人間は信仰心のある人間と比べると自分勝手に堕落した人生を生きやすい。

ここで最初の質問に戻ろう。

「もし本当に神と来世が存在していたら?」

有神論によると人間は死ぬと魂だけの存在となり、その魂のレベルに応じた状態に置かれるらしい。

人間は生まれて来る時に、天命を与えられており、それを全うし、魂のレベルを磨き上げると、もう二度と人間に生まれてくることはないという説がある。

逆に、自分の天命を無視し、全うせず、精神も堕落した状態でいると、もう一度人間としてやり直さなければならず、その場合は現世よりもさらに厳しい状況に置かれるらしい。

とすると、無信仰で堕落した人生を送っていたらどうなるか?

恐らくそれは、もう一度人間コースであり、さらに厳しい人生が待っている。

対して、神や来世の存在を信じて謙虚に努力を積み重ねた人間は、人間としてやり直す必要がないかもしれないし、もしもう一度人間コースだとしても、現世より良い待遇に恵まれるだろう。

何故なら「業」(カルマ)が少ないからである。

【業:行為。行動。身・口・意の三つの行為。また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説】

広辞苑より

もし100%神が存在し、来世があるということが証明されたら、多くの人間が今までとはまったく違う人生を生き始めるだろう。

具体的に言えば、今よりもっと精神を意識し、魂を磨こうと努力するだろう。

何故なら、堕落した魂のまま死を迎えることが、ものすごく恐ろしいからである。

現世よりもっと悲惨な状況に置かれると考えると、誰でも精神を磨かずにはいられない。

もし神・来世が存在していなかったら?

では「もし神・来世が存在していなかったら」どうだろうか?

これならば、敬虔な有神論者よりも、自由気ままに生きた無神論者が得だろうか?

神と来世の存在を信じて、精神の向上に努めて生きてきた人間は無駄骨を折っただけで損をしたのだろうか?

答えはノーである。

何故なら、信仰心のある人間の方が、この世を生きるだけでも楽であるからだ。

そんな馬鹿なと無信仰な人間は言うだろう。

しかし、精神を向上させる努力を怠り、未熟な精神で人生を生きることは、何よりもその人自身を苦しめるのである。

例えば、あなたが新車で購入した車が何者かによって傷つけられたとしよう。

未熟な精神の人間は、この現実を受け入れられず、犯人捜しに執着したり、怒り狂ったり、酷い場合には車を新たに買い直したりするだろう。

そうなれば、一番苦しいのは本人である。

犯人捜しに膨大な(貴重な)時間を失い、怒りにより五臓六腑を痛め、車の再購入のために、さらにローンを組まなければならない。

しかし、精神を高めた人間であれば、同じ状況に遭っても反応は大きく違う。

まず、車は傷つけられただけで、盗まれたわけではなかったことに感謝する。さらに傷がついているだけで、機能的な劣化は全く受けていないことに感謝する。逆に傷がついたことで、車に対する肩の力が少し楽になる。傷がついたことで思い出が増えたと笑う。

こんなに違うのである。

これだけの違いが、精神を磨いていない人間と磨く努力を続けている人間で24時間365日起こっているのである。

これが、たとえ「神や来世が存在していなかった」としても、信仰心を持って生きた人間が得である理由である。

信仰心のある人間は、その信仰心故に生きるのがた易くなっているのである。

信仰心は人間を縛り付ける足枷だと思っている人が多い、しかし実際は信仰心は、人間として生まれて来た時点で既に付けられていた足枷(エゴ)を外すなのである。

その点で「信じるものは救われる」という聖書の有名な一節は、私は正しいと思っている。

嫌なことが起きるのではない。真実は、ただ「事象」があるだけで、それを解釈する方法は、それを見る人間に無限に与えられているということである。

であるから、信仰心を持って、何事にも感謝の気持ちを持つことのできる人間は、それだけ感謝の人生ということになる。

しかし、未熟な精神の持ち主は、事象の表面に囚われ、解釈次第だということに気がつかないから、振り回されてばかりの人生になる。

そこに心の平安は絶対にやってこない。

これが損得勘定で考えても神の存在や来世を信じた方が得である理由だ。

信じるものは救われる―そして信じることはタダである


しかし、実際には神や霊魂の存在を信じることは、無神論であるよりも「はるかに」得なのである。

見えない世界を信じるようになると、第六感が冴えたり、予知能力が備わったり、幸運に恵まれやすくなったりする。

これは嘘でも何でもなくて、本来の人間に備わっている能力なのだ。

実際に文明化されていない先住民などの社会では、これらの能力が当たり前のように使われている。

これらの本来人間に備わっている能力を取り戻すために必要なことは、まず、これらの能力が存在していることを信じることだ。

ちょっとそういった類の本を読んでみれば、いくらでも事例を知ることができる。

信じて努力をしていれば、少しずつその力を取り戻すことができる。

すると人生はずっと楽になり、もっと面白いものになる。

しかも、「信じること」「タダ」なのである。よく「タダより怖いものはない」と言ったりするが、これには何の裏もない。

こんなに得なことを何故これだけ実践してみようとする人間が少ないのか私には不思議でたまらない。

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