委員長になり心が折れる

 東京の大学を卒業して、三十一歳の一九九〇年まで、東京で半導体を作るエンジニアとして働いた。吃音があるため、相手から軽く見られることもあり、精神的につらかったりした。しかし、やりがいがあり給料も良かった。
 そんなとき、母から電話があった。
「お父ちゃんが七十歳近くになり、ぼけてきて怒りっぽくなった。身近にお前がおらんと心細い」
 父は母よりひと回りほど年上で、私は父が年を取って生まれた一人っ子だった。今の生活や仕事を離れるのはもったいないと思ったが、放っておくわけにもいかず、生まれ育った高松市に帰ることにした。
 ふるさととはいえ、すぐに勤め先が見つかるか不安だったが、幸い東京で働いていたキャリアがものをいい、中堅電子工業会社に再就職することができた。入社当初は、みんなに大事にされ楽しい日々だった。しかし、それも束の間、仕事がきつくなり更にサービス残業を強いられる。給料が安いうえに、ただ働きでは納得がいかず、一人だけ定時で帰っていたため、次第に人間関係が悪くなっていった。
 会議で居眠りをしたこともあって閑職にまわされた。そして同僚がクスクス笑うといったいじめを受けるようになった。そのため昼間はイライラが続き、夜は眠れなくなった。先輩が信用できず、上司の何でもない一言に気を悪くしたりした。
 入社して二年経った頃には、ストレスが極限までたまり、感情が安定しなくなった。自宅でワーッと叫んで、周りの人を驚かすことがあった。父母に暴言を吐いたり、軽く叩いたりした。
 家族が、精神保健センターと病院に相談して、私を精神科病院に入院させる、と言いだした。ある日、医師を含めた四、五人の男性に押さえられ、連れていかれた。コミュニケーション障害と躁うつ病と診断された。入院は会社の知るところとなり、解雇された。
 入院した病院には、ごろりと横になっているだけの人や、風呂なんかどうでもいいと入浴しない人がいた。規則正しい生活が三週間ほど続いたのち、母が「退院させたい」と病院に伝えた。ようやく家に帰ることができ、週に一回の通院になった。
 久しぶりの自宅は以前より静かに感じられた。しかし、母からは言われた。
「薬に頼ったらいかん。心の持ちようでどうにでもなる」
 病状の再発を防ぐために薬は飲まざるを得なかった。父は話しかけようとはせず、母は心の持ちようの話ばかりして、私は家庭の安らぎを得られないまま落ち込んだ日々を送っていた。
 退院して一カ月ほど経ち、社会復帰を目指して、スーパーのバックヤードでのアルバイトを始めた。商品に貼るラベルをワードとエクセルを使って、簡単な単語や数字をデータ入力したり、伝票の整理をする。一日四時間で週に五日出社した。退職前はパソコンを使っていたので、簡単な作業なのに法定最低賃金をもらえた。
 しかし、バイト中でも、周りが私をどう見ているのだろうか、つらくあたられたりはしないだろうかと、びくびくしながら過ごしていた。他人との、わずかな接触でも息を止めてやり過ごさなければならなかった。うつ状態がひどくなり、自分は取るに足らない小さな人間だ、と思い込むようになった。
 周囲に対するおびえや、吃音があるという劣等感は自分に対する憎悪に変わりどうしょうもなくなった。
 
 重いうつ病や統合失調症などで精神科病院に入院して退院しても病気が完治していないことがある。『何をしでかすか分からない』というような周囲の偏見にさらされることもあり、耐えきれなくなり、再入院する人々がいる。世の中には、そんな人々の医療や社会復帰などの相談を受けて励ますNPO法人精神保健福祉グループがある。
 高松市にも、その法人が三つほどあった。講演会も主催している『スカイ』というグループがあり、スカイは『青空のように爽やかな気持ちで過ごそう』という願いで名づけられ、一九七〇年に創立された。障害福祉課及び精神保健福祉センター、病院などの理解のもとに活動を行っている。
 参加しているのは、心に病のある人や、その家族、看護師などだ。年会費は一グループにつき六千円で、三十組ほどいる。ミーティングが毎週あり、障害者年金などについての相談もする。それとは別に、年に一回ずつ花見と食事会が開かれている。

 通院している病院の待合室に『スカイの会員募集』のチラシを置いていた。何かにすがりたい気持ちで、主治医からスカイに連絡を取ってもらい、冬の終わりごろ事務所に行った。都心の五階建てビルの三階にあり、福祉や医療の本が並んだ本棚があった。話をしてくれたのは、白髪交じりの女性だった。メガネの奥に優しい瞳をたたえながら花見に誘ってくれた。
「家とバイト先の往復だけでは息が詰まるでしょう。桜の下でみんなと過ごしませんか」
 思いやりを感じさせる言葉に後押しされて、恐る恐る花見に参加した。ブルーシートの上でうつむき加減に座っていると、隣の人が話しかけてきた。緊張から吃音が出たが、バイト先のように馬鹿にされることもなく話を真面目に聞いてくれた。ただ普通に言葉のやり取りをするだけなのに、落ち着きと安心感が得られた。青空を背にした桜は満開だった。
 最初の居心地の良さが忘れられず、それからはミーティングにひんぱんに参加するようになった。新しい出会いの機会にわくわくして軽い躁状態になった。あまり知らない人に対しては吃音が酷くなったけれども、気後れせずしゃべった。今まで、なぜあんなに自分に自信がなく、周りを気にしていたのか不思議なくらいだ。幸せな時が来て発病前の自分を取り戻したように感じた。
 ミーティングの時、野間君というメガネをかけた男性がいきなり話しかけてきた。
「僕は統合失調症にかかっとる。どこの病院にかかっとんな。彼女おるんな?」
 野間君は何年も前からの会員だ。私よりひと回りほど若いからか、遠慮というものを知らない。プライベートなことを気安く聞いてくる。話がしつこくて最初は面食らったが、病状が重いから、ある程度は仕方がないと感じた。県内の、精神科病院や公営組織などについて詳しく知っており、いい友達ができたと思っていた。
 毎年一月に、スカイが中心になって『みんなの精神保健福祉を語ろう会』を開催する。俗称『語ろう会』という。十人ほどが準備をし、当日には県内在住の心に病を持つ人たちや、その家族、医療従事者などが七十人ほど集まってくる。
 その年も講演会の数カ月前から準備会が結成された。準備会の最初の打ち合わせで、委員長を募った。雑用が多い役目なのでなりたがる人はいない。その時、躁状態になっていたこともあり、頼まれて、つい承諾してしまった。当初からの前向きな気持ちを持ち続けていたのはもちろんだが、それ以上に自分を必要としてくれる人がいるのは心地よかった。
 委員長になって最初の仕事は準備会の司会だった。顔見知りの人たちばかりなので緊張もなかった。議事は順調に進み、語ろう会に来ていただく講師を誰にするかが煮詰まってきた。
「今度呼ぶ講師は横浜で福祉の活動をしている広川先生でいいでしょうか?」
 すると野間君が急に節をつけて歌いだした。
 🎵 横浜たそがれ~ホテルの小部屋~

「君ィ――」と私が注意すると、すぐ、にっこりして、
「ごめん、ごめん」
 頭を下げて謝るが間を置かずに、茶々を入れる。妨害の繰り返しである。どういうつもりなのか。野間君は口が立ち、言われたことを倍にして言い返す。私は吃音があり、詰まりながらしか言えない。
 周囲の人々はもめるのが面白いのか、関わり合いになりたくないのか、見ているだけである。会で一番の中心人物である男性の事務長Aさんを始め周りのメンバーも、そしらぬふりだ。彼は県庁の福祉とは関係のない部署から来た人で、事なかれ主義の人だ。みんな、野間君に遠慮しているようだ。そして誰の反対もなく、講師は最初から言っていた横浜の広川先生にあっさり決まった。
 いったい何が起こっているのか理解できなかった。こんなことが、これから、ずっと続くのか。不安に押しつぶされそうだった。それでも、私に期待してくれる人々を裏切りたくなかったので我慢した。
 準備会も最初のうちは気分が良かった。しかし、あのような出来事を経験すると、司会をするのが苦痛になった。それを考えるたびに一気に落ち込む。考えないようにしても、すぐ嫌な気持ちがわき出てきて苦しめられる。
 健康な人の中にも、立場が弱かつたり、おとなしい人にちょっかいを入れて、困っている様子を見て喜ぶ人はいる。野間君のような精神障害者なら、そのような人の割合はもっと高いのかもしれない。
 一番の不安は講演本番でも何かしてくるのではないかというものだった。しかし、実際はしないだろうという気持ちの方が強かった。今までは準備だからちょっかいを出していた、と思うことにしていた。

 一月の本番の日、講演は順調に進んでいき、安心感に包まれた。体全体の力が抜け、呪縛から解き放たれたのである。
 だが、それも長くは続かなかった。講演の半ばに、突然講堂の最後列の席に座っていた野間君が先生の前に進み出てきた。
「読んで」と言って、うどん屋巡りのチラシを、先生に手渡し周りの人にも配り始めた。先生は、あぜんとして大声をあげる。
「話を続けていいのでしょうか」
「気にせず続けて下さい」
 彼だけがチラシを配りながら叫んだ。人々がびっくりするのも気にせず、配り続けた。
 慌てて彼に詰め寄り、配るのをやめさせた。いったい何が起こっているのか理解できず呻いた。
「これはどういうことだ」
 この会のために国から補助金が出ている。事務局から菓子やお茶も出ている。野間君は費やした時間と労力を台無しにした。私たちが今回の講演をするために、どれだけ頑張ったかを知っているはずだ。彼は最初から計画していたようだ。横浜から来られた講師の広川先生にも、どれだけ失礼なことか。
 野間君は、この後も何かと奇声をあげ、ちょっかいを入れる。困っている私を見て彼が面白がっても、周りの人は揉め事を起こしたくないのか黙っている。中にはそれを面白がる人もいたようだ。
 一カ月後に、この講演の反省会があった。ここでチラシのこと、講演中に奇声をあげ進行の邪魔をしたことを黙っていることはできない。彼も反省会ではうつむいて静かにしているだろう。
 みんなも、明らかに野間君が悪いと考えていると思ったので、そのことについて当然のことのように言った。
「講演中にチラシを配り、嫌がらせをした人がいます」
 しかし、反応は違った。A事務長を筆頭に、他のメンバーも野間君をかばい、ある人は私の意見を抑えようとする。
「チラシを配ったりしたのはたいしたことでないな。横浜から来た先生もあまり気にしてないがな」
 とAは笑い、ある女性が続けて話した。
「もういいじゃないですか」
 みんながあまりに彼をかばうので、自分が悪いのかと思うようにさえなった。今までに味わったことのない悔しさを感じた。
 事務長が私の目をじっと見てだめ押しをする。
「何か言いたいことがありそうやの」
「多数意見に従います」と、感情を抑えて渋々承知した。すぐに野間君は調子づき言い放った。
「これからはビラ配りでもなんでもするぞ」
 さすがに誰も同調せず黙っていた。
 飲んでいる精神安定剤の副作用で、気が滅入った時は指先が少し震える。講演会を思い出すたびにイライラし、指先の振幅が大きくなる。
 その晩は寝付かれず、久しぶりに睡眠導入剤を飲んだ。一晩寝ても思い出すたびに、なぜ野間君があんな行動に出たのか、腹立たしさの中で考えた。委員長としてスカイ講演会の準備に何の手も抜いていない。むしろ私の行動が目立ち過ぎたのか。

 野間君とは年賀状を交わしており、電話番号と住所は分かっている。直接問いただしたくて電話してみた。
 電話口に彼の母親が出てきて、
「息子には困っています。うちらも大変なんですよ」
 言葉遣いは丁寧だが、取りつく島もない。そういえば、野間君の両親は彼がスカイに参加することに反対だと聞いていた。
 悩んだ末、気持ちを落ち着かせるためにも直接言葉をぶつけたくて、彼の自宅に向かった。車で三十分ほど走り、田畑に囲まれた邸宅に着いた。立派な門構えで、インターホンを押すと、父親の声が聞こえてきた。
「近所の手前があるから、周りに吹聴されても困る。息子を厳重注意して、スカイには行かさないようにします」
 彼はスカイの定例会に来なくなった。

 春になり、私にとって二回目のスカイの花見があった。野間君が遅れて来て、離れた場所に座った。彼を見ると、また怒りがわいてきた。
(良い機会だ、ここできちんと言っておこう)
 そんな気持ちで彼の横に座った。
「なんで、語ろう会の講演会で嫌がらせにビラを配ったんや」
 彼は下を向いて、無言のままであった。
 感情をむき出しにして内にたまっていたものを爆発させた。周りのスカイのメンバーはただ傍観しているだけであった。
「なんとか言えや」
 彼は返事をしない。黙ってうつむいたままだ。相手を打ちのめす手応えがあったと思った。この瞬間、講演会の屈辱から解放された。正直、私の気持ちがきちんと伝わったとは思えないが、彼も病気を持つ身、あまり追いつめるのはよそうと感情を抑えた。 
 もう十分だ、と彼の身を気遣う気持ちが芽生えたとき、なぜ彼が嫌がらせをしたのか、私の何が彼をそうさせたのか分からないままだと気づいた。 
 言うべきことは全部言った。そう自分に言い聞かせたものの、何か割り切れない、しこりのようなものが胸の奥に残った。

 〈注釈〉
「みんなの精神保健福祉を語ろう会」の広川先生の講演を、作者の委員長がビデオカメラで撮影しました。録画したものを私が持っている次のQRコードのホームページに上げる予定です。見ることは難しい人は、録画したDVDを実費で差し上げます。
 筆者のは、こころの病、ひとり上手などの作品もホームページにアップしています。一部でも、ご覧いただければ、作者にとって幸いです。
HPアドレス : https://www.okumato.com

メールアドレス : sikokut@gmail.com

2121/6/30


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