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成果物だけが注目されるデザインされた食と「モノ」に固執する食
今、料理の本質的な価値を理解し、その工程や研究、過程を楽しんでいる人は少ないかと思う。
先日投稿した「料理をする事」に書いたが、デザインされた食のなかで、「美味しい一皿」という成果物だけが注目され、あたかもそれが「料理」というモノのように常識が出来上がっている。
すると、「美味しい」は一定の基準を持ち、区分され、工業化が進んだ。
「料理」は自然に寄り添いながら創造性を発揮させるモノから、自然に負荷をかけながら大量消費するための「作業」になってしまった。
そこから、作業は工場が担い、食は人の欲求に寄り添い、人の欲が民意となって大量消費を促し、それが資本主義経済とも結びつき、食は「わかりやすく」「美味しい」が大切という常識を「安心・安全」という言葉に隠れ、概念として浸透していった。
これが「デザインされた食」の正体であると考える。
そして、この弊害を受けたのは紛れもなく「料理をする人」であろう。
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