マーキュリーファー考察 原作に寄せて

舞台『マーキュリーファー』を鑑賞して早1ヶ月。未だに折りに触れあの衝撃的な舞台のことを考えてしまう自分がいる。
日々薄れゆく記憶を必死に繋ぎ止めながら原作も交えあれやこれや調べながら頭を巡らせた。苦手な英語とも格闘した。卒論ぶりくらい考えたかもしれない。それくらい吸引力のある作品だ。今だからより一層目が離せない。
まだまだ考え足りず完成とはいえないけれど、ひとまず考察をまとめた。舞台というより原作の考察かもしれないが、舞台での印象を交えて書いてみた。
配信は舞台ではよく見えなかった表情がはっきりと見え印象が変わるだろう。考察も深まり解釈が一転するかもしれない。
そんなところも含めて今後しばらくはこの作品を噛み締め続けようと思う。


舞台背景やバタフライのことなど色々な方がそれぞれ面白い考察をされているので、ここでは限界オタクが主に人間関係や人物像をほじくってみた内容となっています。
長文かつ度々妄想が飛躍するかもしれませんが、興味のある方はお付き合いいただけたら嬉しいです。

※以下、ゴリゴリのネタバレゾーンになります。
 ネタバレNGの方は引き返して下さい。







エリオットとダレン

この兄弟の関係性を語る上でまず取り上げるべきなのは愛しているから、と掛け合い抱き合うシーンだろう。
兄はバタフライで頭の働きが悪い弟にイラつき散々罵倒していた。
弟は頭の回転が悪いながら罵倒されていることだけは感じ取りやめてと抵抗する。
しかし彼らは日常的に言葉で愛を確かめ合う。
お前をどれだけ愛しているかと。傷つけながらもお前を愛しているが故なのだと。
この言葉での確かめ合いは舞台上ではダレンから持ちかけられていた。
おそらくダレンは言葉で自分を傷つけるエリオットに、言葉で愛しているといってほしいのだ。そうしなければ愛を実感できないのではないか。
しかしエリオットは言葉で愛を伝えることにあまり積極的ではない。
しかし愛していないわけではない。むしろ唯一無二の存在でありもっとも大切な人物のはずだ。
話が少しそれてしまうが、エリオットがそう認識しているだろうと考えるその理由として血縁者は兄弟一人だけだという認識が根底あると思うから。兄弟の母親、姫は恐らく息子2人を認識していない。事件のショックで記憶に蓋をしたのだろう。
姫が唯一認識できるのがスピンクス。スピンクスのこともまたスピンクスという人物ではなく自身の夫として認識していると考えられる。(後述で詳しく)家族のなかで唯一今は亡き夫だけが生きていると信じ、本当は生きているはずの自分の子供たちのことは姫の口で語られることはない。姫にとって絶対的なのはスピンクスである。そんな姫を兄弟は母親と見ることはできないはずだ。できたとしてもかなり時間を要するような苦しみを伴う。だから姫と呼ぶ。母ではなく。
彼らのなかでは母はもう存在しないのだ。そう思い込むしかない現実を受け止めるのは容易くはなかっただろう。
だから今や兄弟にとって互いに残された血縁者は実質一人きりなのだ。
エリオットはかけがえのない弟を全力で守る。バタフライを服用せず、記憶を鮮明に持ち続けるエリオットであればなおさら失いたくないと強く思うだろう。
ダレンはそんな兄がそばにいないと不安になる。バタフライの影響か言葉は足りないが無意識的に本能的に兄を求める。

話を戻すと、エリオットはいかんせん不器用なのだと思う。気恥ずかしさなどから、心で思っていることと正反対のことを言ってしまう性格はありがちだ。エリオットもまた仕事上の話や思ってもないことをいうのはペラペラと口が回っても肝心なことを伝えるとなると口が重くなるのかもしれない。ただ、言葉に表れない分その愛は行動に表れるのだ。
不自由な身体になってもダレンに手をあげられそうとみるや、とっさに足を引きずり前に出て庇う。
事件のあった日もダレンを庇っていた。ダレンのためならば身体が勝手に動くのだろう。兄として。
ただ、エリオットにとってダレンはかけがえのない大切な存在でありながらも、決して心安らげる相手ではないようにも思える。
エリオットにとってのダレンは忌むべき己の弱さを思い出させる存在でもあるのだ。
傷ついた大切な家族をおいて逃げてしまった罪悪感はダレンを見るたび思い出されるだろう。
バタフライをダレンに食べさせるのは、エリオットがしてしまった仕打ちをダレンのためにも、自分のためにも、思い出せないようにするためなのではないか。これはエリオットのエゴかもしれない。
大切でありながら傷を深く深く抉る存在。当然イラつかせる相手であり、当たり散らす相手になる。
そんな兄に対してダレンも人間であるから様々な感情を抱く。
事情をしらないダレンは冷たく当たる兄に不安を覚えたのではないか。だが過去を忘れたダレンは兄とはそういうものだったと認識し不快だという感情は伝えつつも根本解決には至らない。
怒りもするし甘えたいしバタフライももらいたい。ダレンはただひたすら"今"を生きているのだ。過去を引きずるエリオットにとって今を生きるダレンが純粋に自分を慕い頼りにしてくるのを心の中では嬉しく感じつつも過去を失わせた罪悪感を抱いているようにもみてとれる。
エリオットが足を引きずるのは過去を引きずり続けているというメタファーだろうか。
過去にあったことはいい記憶なのだ。いい記憶だからこそいっそう苦しい。
忘れていいはずがない。でもいい記憶を持ち続けるより忘れてしまった方が今は楽に生きられる。
そんな板挟みにあっているのかもしれない。
いい記憶とは一体なんだったのだろう。
家族の記憶だったのかもしれない。友達との記憶だっただろうか。
家族関係に関して、エリオットは父と、ダレンは母とそれぞれ結びつきが強かったのではないか。
本をたくさん読むエリオットのために父は本棚を作ったというエピソードが語られる。一方、ダレンと母である姫はしばしば歌を歌う。特にパーティプレゼントがパパ、ママと取り乱した際は2人ともきらきら星を歌って落ち着かせた。幼い兄弟へ聴かせた子守唄だったのだろうか。両親はパブを経営していたようだから、姫とともにダレンも歌う機会があったのではないだろうかと想像される。
ダレンは家族との思い出、過去の楽しかったことや苦しかったことをどれくらい覚えているだろうか。きっとほとんど忘れてしまったのかもしれない。でもきっと、だからこそ、最後ダレンはあんなに絶望的な状況でもきっとなんとかなるから銃を下ろして、と前を向けたのかもしれない。過去に縛られるエリオットが死を選ぼうとしてもなお。


ローラとエリオット

ローラとエリオットの出会いは非常にドラマチックだ。
エリオットが大怪我を負いながら逃げ惑った末にたどり着いたのがスピンクスとローラの家だった。花の香りがした、とあるが母が母であることを忘れた今でも好きなバラの香りが道標となったのだろうか。

ローラは兄の固い言いつけを破りエリオットを助けた。
ロイヤルロンドン病院にいたのだろうか、動物はロンドン動物園から逃げたのだろうかなどこの辺は地名やランドマークが具体的に出てくるので地理的にも考察が捗る部分だが今は置いておく。
日の出と共に名前を初めて伝え合ったというシーンは映像化を期待したいくらい美しい。
果たしてあのキスは当時のキスを再現したのか、はたまた過去をなぞることで改めて愛を確認してのキスなのだろうか。
いずれにせよ二人の間に性別を超えての愛があることは間違いないと思う。
もしかしたらエリオットはローラに対して同性同士の愛はないのではないかという可能性も考えたがおそらくこれはないと考える。恋愛の対象外であるのにローラに心を偽り関係を続けるには近すぎる距離感で彼らは生活している。男女の恋よりデリケートな関係は続ける方が困難が伴うはずなのでそれを敢えて続けているということは互いに愛し合う関係でなければ難しくだろうというのが理由である。
加えて、エリオットは行動に心が表れる点に特徴がある。口では罵倒していても怒鳴っていても前出の通りキスはするし、スピンクスからローラを身を挺して庇うし、暗いところを歩くローラにはトーチではなく明るいキャンドルを持たせようとするしと行動の随所にローラを想う気持ちがこれでもかというくらい滲み出る。ここからわかるようにエリオットはダレンと同様にローラを守るべき相手として接している。
そう、エリオットは常にローラを男性ではなく女性として接するのだ。ローラは原作の地の文においてしっかりと"彼"と表記されている。しかしエリオットを始めたとして誰一人ローラを彼と呼ぶものはいない。スピンクスは妹、ダレンやナズも彼女として接する。


マーキュリーファーの舞台、イギリスにおける性的少数者の歴史を少し調べてみた。どうやら彼らが初めて日の目を見たのは同性愛行為が非犯罪化された1967年らしい。
そしてマーキュリーファーが発表された2005年の前年には同性愛カップルに結婚とほぼ同等の権利を与えるシビル・パートナーシップ法が施行された。
調べていて数年前、ダウントンアビーにアホほどハマったことを思い出した。下僕のトーマスは嫌な奴だったけどゲイとして生きるには第一時世界大戦の頃は過酷な時代だったのだと教えてくれたっけ…。性的少数者には人権など与えられていなかったのだ。
ちょうど性的少数者に注目が集まるタイミング、世の流れを受けてのローラだったのかもしれない。
ただ初演でなぜ女性である中村さんを起用したのかは非常に興味深いところだけれど。誰か教えて…。

もしかしたら舞台だけ見ていて、どうしても演技で補いきれない宮崎さんの声の低さや骨格的なものに違和感を持たなければ女性と信じる人もいるかもしれない。
それくらい舞台上においてローラは女性なのだ。
仕草も話し方も服装も気遣いも実に女性らしさに溢れている。スピンクスやエリオットダレン兄弟、初対面のナズやパーティゲストすら彼女の心身の性別の相違に疑いをかけない。
ただ身体が男性だという事実のみがそこにある。

今日明日を生き抜くのに必死な人々にとって性別などどうでもいいことだ。
バタフライを常用するナズは兄弟がいると言いながら実際いるのは妹だった。バタフライを服用するものが大半を占めるこの街においては尚更どうでもよいことなのだろう。
いつからローラが性に違和感を覚えたのか語られることはないが、性が一致している多数派が経験することのない思いは少なからずしてきたのではないだろうか。
ローラにとってこの荒廃した世界はもしかしたら平時よりも随分と生きやすいのかもしれない。
恋人であるエリオットとの運命的な出会いも、破壊と暴力の最中でなければ果たされなかっただろう。
本来誰もが平和な世の中で生きやすくなるべきなのに、マイノリティ側の人々は非常時にむしろ生きやすくなる場合がある。コロナ禍においても言えることだ。
あってはならないことであり、変えていかなければならないことのはずだがそれが今も続く現実である。

ローラとエリオットの関係性にはもう一つ魅力がある。
エリオットはローラを守るべき女性として接すると書いたが、一方で弱みを見せられるという唯一対等な関係でもあるという点だ。
互いに支え合う関係性だ。
エリオットにはダレンという守るべき存在がいる。だがダレンを守るためには苦労が多い。バタフライに溺れられない苦しさもある。忘れたい凄惨な出来事。姫のこと。自分の身体のこと。
周りを苦しめまいと溜め込んでは周りのものや人にあたって頭を掻きむしる。
そんなエリオットを癒せるのはローラだけなのだろう。
舞台上では一度だけだが、日常的にやっていると感じさせる場面があった。
ローラがエリオットの膝をさすってマッサージする場面だ。
父親の暴力により負傷したのは4年前だが、未だにエリオットは膝が痛むらしく時折膝を押さえる。
ダレンがさすろうかと言うとお前がやると悪化するからだめだと言う。
つまりローラなら許しているようにも取れる。
実際イラついていてもローラに呼ばれると素直にローラの前に足を投げ出す。
歩けるようにはなろうとも曲がらなくなった膝はエリオットの心を表しているのかもしれない。
あの日父親に壊れされて傷つき、今もなお元に戻らない心。
それを唯一さすって癒せるのがローラなのだ。元には戻せないけれど癒すことのできる存在はエリオットにとって唯一無二なのだろう。
そういう意味でも彼らは互いになくてはならない存在なのだ。
ずっと続いてほしい関係。けれど結末を思い出すたび胸が痛む。


スピンクスと姫

この二人の関係は舞台を観るだけでは正直あまりぴんとこなかった。しかし原作を読むと一番ぐっとくる二人だったように思う。原作と舞台の違いに触れつつ見ていく。
この二人に興味を覚えたのは姫の服装がスピンクスの服装の趣味に近いという点から。
2人の服装を見ていこう。

・スピンクス(21歳)
毛皮のコート、ゴールドのリングを全ての指につけネックレスリストチェーンを身につけている 

・姫(38歳)
毛皮のコート真珠のイヤリング、ダイヤモンドの指輪、ネックレス、ブレスレット、ティアラを身につけ、化粧もしている。

スピンクスは年齢が近いはずのエリオットとは似ても似つかない格好をしており、権力の象徴ともいえるアイテムを多く身につけている。これは舞台でも同様。そしてそのごてごてしい(失礼)趣味は姫にも共通する。盲目の姫の服装はスピンクスが選んでいると容易に想像できるのだ。
また、ナズに化粧直しが上手いと褒められていたようにスピンクスは姫に化粧も施す。更に姫の食べるものも携帯しており生理現象の始末まで一切の世話を担う。
他人にここまでできるかと問われたら、なかなか自信をもって即答することはできない。
それなのに不思議なくらいスピンクスは姫へ献身的なのだ。
どんな感情を抱けばそこまでの行動ができるのか。
印象的な場面がある。
姫が発作を起こし落ち着いてしばらくしたところでスピンクスは姫にキスをする。
スピンクスは、姫の唇はキスの仕方を知っていた頃の唇だと言う。そして、原作の21歳のスピンクスはキスの仕方を知らない側だと自覚しながらも、心の距離を感じながらも姫にキスをするのだ。
現代でも17歳離れた相手と男女の縁を持つカップルは多いとは言い難い。ましてやこの世界において、19歳のエリオットが15、6歳のナズやダレンを若いと言い、パーティゲストは10歳のパーティプレゼントとナズを比べて歳を取り過ぎていると言う。今の感覚でいくともしかしたら姫に対してスピンクスは30、40歳くらいの年齢差を感じているのかもしれない。
だがどうして姫とスピンクスの間には擬似夫婦、擬似家族のような関係性を想像してしまう。
スピンクスは愛するがために家族に手をかけた、姫の夫の代わりであろうとしているようにみえてならない。
そのせいだろうか、原作のスピンクスのキスからはエリオットとローラのキスとは違った寂しさや哀しさが垣間見えてしまうのだ。
一方舞台のスピンクスは34歳の加治さんである。
姫とある程度対等な年齢になる。原作の設定のままやると役者さん自身の年齢から受ける印象から多少違和感を覚えてしまうかもしれないので、おそらく偽りの夫を演じ擬似夫婦でいようとする葛藤が垣間見えた、ような気がする。いかんせん記憶が曖昧。これは配信で要確認なところ。
いずれにせよ、原作では年齢差から、舞台では偽る部分からどこか切ない印象を受けてしまう。

姫が最後に見た光景は身体を焼かれ叫び続ける夫の姿。そして次に目を覚ました時視界は真っ暗。正気ではいられない。混乱のなかで夫を探し、パパと呼んだのかもしれない。
全く他人のスピンクスではなく夫、パパとして接したスピンクスに深い優しさを感じる。(そもそもパパ=夫なのか、姫の心が幼体化してパパ=父親なのかで意味合いは大きく変わると思うが私は前者を推す。理由は原作通り20代前半の役者さんを起用するのではなく年齢が上のかじさんをあえて選んでいるという点。そして将軍という認識のエリオットダレンに対する言葉遣い。とても子どもの口調ではないし子どもがバラと核兵器に乾杯などと言う場面はそうそうないと考えるから。ただ舞台で演じる加治さんの年齢を考えると父親説もなくはないか?後者を推す方いたら教えて…)

姫もまた、実の子どもであるエリオットとダレンの声を聞いても分からないが、スピンクスのことだけは認識しているようだ。呼ぶのはパパのみ。夫だと思い込んでいるのか、はたまた全く別の人物が夫の代わりをしてくれていると気づきながら演じているのか。
思い込んでくれているならどんないいいだろう、もし何かしら勘づいているのなら子どもたちとのやり取りや部屋に広がる香水の香り、隣の部屋の映画の音だというパーティの凄惨な音、罵声は何もかも嘘だと知るのは想像に難くない。
しかしいずれにせよ姫のスピンクスに対する信頼感もしくは気遣いは相当大きいものだろう。
歪だけれど互いに支え合う愛の形を二人に感じずにはいられなかった。
主役はエリオットダレン兄弟なので控えめだが、この二人の関係に私は痺れてしまった。


ナズとダレン

ナズの人物像はどこか掴みきれなかった。直球かと思いきや雲を掴むかのような手応えのなさ。
なにも考えず見れば人懐こく天心爛漫、心優しく純粋無垢である。一方でどこか巧妙さ計算高さもあるような気がする。いつ家族を亡くしたのか分からないが一人で生き抜いた期間は多少なりともあるわけで、最低限の衣食住を確保するだけの術を持ち合わせていてもなんらおかしくはない。
ナズになんとも言えない胡散臭さ、怪しさを感じるのは私だけだろうか。

ナズはこの作品におけるトリックスターだろう。
ナズという、ダレンと心通わせられる人物さえ現れなければこのパーティは無事終わっていたかもしれない。たとえ何人かの人間は死んでもスピンクスら主催者側は無事新天地に向かえたのではないか。あらわれたのがナズでさえなければ。
実際ダレンはパーティプレゼントの世話を担当していたがきっと同じ人間であるという感情は生まれておらず、きっとこれまでもパーティで差し出してきたプレゼントに大しても同じだったはずだ。ナズがおそらく荒み切ってしまった世界で初めて出来てしまった友達だったのかもしれない。スピンクスは知らないものを仲間にしないとローラはいっていた。つまり仲間=心通わせた人間。多ければ多いほど失ったとき、人質に取られたとき弱くなる。エリオットもダレンも友達、仲間と呼べる人間を意識的に作らないようにしていたと考えられる。

ナズのセリフには大英博物館が何度か登場する。
エリオットのセリフにある、ホワイトチャペルやブルックレーンは大英博物館から5、6キロの距離感にある。ナズが身を隠すか度々出入りしていてもおかしくはない。
少し逸れるが、たびたび大英博物館やエジプト、ギリシャ神話などが登場するのはイギリスの略奪の歴史を暗に揶揄しているのかもしれない。そもそもマーキュリーファーはフィリップリドリー氏がイラク戦争での自国の行いに対する抗議心が根底にあることからも批判の精神が伺える。
ナズがバタフライと交換したアステカの器はおそらく大英博物館の収蔵品だろう。エルギンマーブルに代表される文化財返還問題は今なお原産国との禍根となっているが大英博物館は所蔵品を手放す気配はない。だがこの荒廃した世界では所蔵品はナズによって博物館から持ち出され、バタフライとあっさり交換されるのだ。
ナズはエリオットならこの器の価値が分かると踏んで渡したのだろうか。なぜその器を持ち出したのだろうか。
自身で判断したのか誰かから聞いたのか。
この辺からもナズの掴みきれない人物像が見て取れるのではないか。
さんざん書いたがナズはダレンにとっての親友である。これは間違いない。
擬似家族以外に心通わせた人間は久しぶりのはずだ。外へ出ればバタフライを服用してふらふらしているものばかりだろう。
そんななかで話が通じ一緒に夕日を見られる相手はかけがえのない存在だ。この世界では尚更だろう。
だからこそ兄弟は普段とは違った選択をした。殺したはずの心は死んでいなかったのだ。


パーティゲストとパーティプレゼント

この二人は関係性というより原作からの変更など設定の部分で気になってしまったのでそれぞれ取り上げる。

・パーティゲスト

まず歳に驚いた。
23歳なのだそう。
舞台を見ていてのイメージではどこか、権力を後ろ盾にできる強い立場の人間が、安全を引き換えに悪趣味な道楽を所望したという印象だった。しかし原作の年齢では与えられるイメージが大きく変わる。
たった2、3年の違いでもしかしたらこの世界から逃げ出せる人生選択ができたのではないかという紙一重の残酷さ。パーティゲストもまた、数年生まれるのが遅ければこちら側にいたのかもしれない。運命の悪戯としか思えない、ただただタイミングが悪かったというやるせなさ。救いの手は近ければ近いほど届かなかったときの絶望は計り知れない。

水橋さんの実年齢は47歳だそう。
ちなみに初演でゲストを演じた半海さんは当時56歳。
スピンクスもだけど起用した役者さんの年齢と原作との違いはきっと意図があってのことと想像する。
年齢が大きく離れていることで大人によって作られた地獄の世界で当の大人は逃げ出し、とばっちりを受けるのはなんの非もない子ども、若者世代という構造が出来上がる。これは今の世でも言えることで、若い世代が現実と真剣に向き合うことで未来は変えられる余地がある問題でもある。
生まれたタイミングというどうにもならない方を選択しただ絶望するより、多少は未来ある解釈ができる方を選択をし訴えかけているのではないだろうか。勝手な想像でしかないが…。

・パーティプレゼント

舞台ではパーティプレゼントと呼ばれていたが、原作ではパーティピースと表記される。
なぜプレゼントにしたのだろう。
ピースはパズルのピースのように大きなものを構成するひとかけらという意味だ。 
一方でプレゼントは贈り物、みやげ。つまり特別な意味をもつ。あるひと場面において登場すれば主役になりうるものでもある。
あの凄惨なパーティを成り立たせるのに必要な歯車のひとつというような扱いではなく、せめて主役として扱おうと神に捧げる生贄のように飾り立てる。罪滅ぼしのような気持ちがプレゼントと呼ばれることで際立つような気がする。
パーティプレゼントをどう見つけ選び連れてくるのか、こればかりはあまり知りたくない。

マーキュリーファーが結末を迎えたあと、原作にはフィリップ・リドリー氏の5編の詩が収録されている。
リドリー氏の、自国の振る舞いにより多くの罪なき命が無残に散ったのだと憤る心情。
個人的に本編より更にどきりとする表現だった。
マーキュリーファーの根底にあるものがここに現れているように感じた。著作権の関係上あげられないが今だからこそこちらも併せて読むべき内容かもしれない。興味がある方は是非。

この作品はフィクションでありノンフィクションでもあると思う。生きるために他者を犠牲にする世界など、どちらにとっても不幸しかない。
荒んだ世界で社会秩序が失われると人間の欲求、汚い部分は露わになる。幸い最近の日本ではわりと平和にのほほんと暮らしていけたが、今この時もフィクションではなく現実で信じられないことが起きているのだ。対岸の火事だと知らないふりをしていてはいけないと切に思った。
今の我々にできることをやらなければならない。知らなければならない。変えていかなければならない。

長くて読みづらい文章にお付き合いいただきありがとうございました。
いよいよ始まる配信が楽しみなような怖いような…。受ける印象の違いや発見をまたじっくり考察して追記しようと思っています。








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