目が覚めそうで、覚めたくない朝に不安が僕を引きずり込もうとする

あまりはっきり意識したことはないが、早朝の四時くらいに目を覚ますのが嫌だ。時計を確認するわけではないから、五時の日もあるかもしれない。

これを書いている今は7:41であり、窓の外も部屋の中も明るくなり始めていて、薄暗い朝の中で抱く極限にネガティブな感情はほとんど消えてしまっている。雨が降っているものの、空は明るく、アスファルトや隣の商業倉庫のトタン屋根に雨粒が連続して到達する音が気持ちよくすらある。すでに、あの不安は僕の心を離れてしまっているかのようだ。

しかし、それは決して心から出て行ってくれた訳ではないことを知っている。ふと目を覚ました出張先に深夜と早朝の中間や、平凡な毎日の時々に独りで起きる時間にその不安は私の心を握りしめている。普段心の奥の方に仕舞われているに過ぎない。

その不安に占有されている時、私はかなり投げやりであり、自己否定の言葉が体中を駆け巡る。この時、昼よりも脳に血が回っているということはなく、駆け巡るというよりも歩き回るという方が近い。だから余計に陰惨だ。真綿よりもごわついた肌触りの悪い布で締められている。

それは現在までのところ、何も成就していない人生に対する呪いであり、成就するための努力を怠ってきた自分への恨みであり、そうかと言って、何が成功で打ち込むべき目標であったか未だに分からないことへの絶望でもある。ヘルシンキで職場の後輩と日をまたぐかまたがないか、人通りの少ない町を歩いて、それが一体何の仕事に繋がるのかと、その場にいることさえ楽しめずに、時間を無為にする性格の悪さ。アムステルダムのAirbnbで二週間、やはり何にも繋がらない出張を、せめて楽しんでやるような心のゆとりもなく、電子書籍のマンガに退避する自分のくだらなさ。外国での無力感ほど、大人の筈の私の心を挫くものはない。一種のトラウマでさえあるだろう。そういった瞬間瞬間が決して、学生の時に憧れたような、生も仕事も謳歌する偶像から全く掛け離れてカッコ悪く、もうこのまま私はどこにも辿り着けないだろうと思って絶望する。

絶望の発作は、日が昇ると遠のいていく。朝が嫌でも日常を連れてくるので、その日やらなければいけないことらが次第に頭の中を占めて、心から闇を追い出す。それはまた戻ってくるのだが、表現しがたい将来への不安と現実の否定で構成される呪いのような感覚は、7:57の清々しい雨の朝に淡々と文を書いている今は、正確に呼び起こすことが難しい。理性が向き合うことから逃げている。だから次回は、目が覚めた瞬間に夢を書き留めるように、その不安を書き留めてみたいと思っている。

明け方の不安は、日常の中で静かに眠っている。起きがけの、社会と未だ繋がっていないあの時間帯の、心の準備ができていない私を暗いところに引きずり込もうとする。まだ目を覚ましたくもないような早朝の薄暗闇で、私は油断している。

恐らく、あの瞬間に、自分自身を偽る目標や義務のようなものはとっさに手を伸ばして届くような場所には置かれていない。それだから、毎日の幸福を忘れて、行為に意味を求めて動けなくなる不毛な時間や日々に肺のあたりを刻まれるような感覚を思い出して布団の中で固まる。それはとても怖いものであり、目を向けると、竦んで動けなくなる。何もかもを投げ出して逃げたくなる。実際、逃げまわってきたことが私の累積損失を形成している。

今日は、この暗闇を受け止めてみたかった。もう8:38なので、完全に外は明るい。雨は止まずに明るく灰色の空に覆われている。一番近い国道を走る車が道路上の水を巻き込んで走る音がよく聞こえる。もうみんなが活動している。

これからコーヒーを淹れるか、二度寝をするかを検討する傍ら私がこの不安を克服する方法はより大きな不安の中に飛び込むことだけしかないようだ、とぼんやり答えが出かかっている。もしくは幸福によって取り除くことはできるのだろうか。


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