見出し画像

特別なことを求めなくなったという話

半年前くらいにネットの友人と話していて、近頃の若者は(この言い方、老害を感じるな…)は失敗を明らかに恐れる傾向があるよね、という話題になった。ネットやSNSの普及で、人気な場所はより人気に、不人気な場所はよりがらんとしている気がする。インスタに載っているような「映える」花畑やイルミネーション、アミューズメントパークは、週末に行けばどこも歩くにも大変なくらいの人混みだ。

私も昔はそうだったなぁと思う。昔といっても割と数年前の話だし、何なら今も気合の入った旅行なんかだとやるのだが。
旅行に行くためには、まずネットの〇〇おすすめスポット!みたいな記事で定番の場所をチェックしたあと、インスタで穴場のオシャレなカフェやご飯やさん、雑貨屋さんを調べて、導線や30分単位のスケジュールを作り、なんなら旅の栞まで作っちゃう。
記念日のデートは1か月前から店を下調べし、レビューを比較しながら検討を重ね、夜景の見えるスポットに何時に行くかまで決めて、当日はそれをなぞるだけである。私がサプライズが好きなタイプではない(なんなら苦手、フラッシュモブなんかされた日には失神するかもしれない)ことを加味しても、なんと味気ないのだろうか・・・とは思う。

「特別な日」「特別な場所」に期待をしすぎるということには、今思いつく限り2つの弊害があると思っている。
1つは、その日を台無しにしないように、絶対楽しまなければいけない、という強迫観念で動いているので、実際にはゆとりのある楽しみ方ができないということ。
2つ目は、「特別な日」の代わりに「つまらない・苦痛な日々」を過ごさなければいけないということ。つまらない仕事、生活の先に楽しい日があるので頑張るけど、その日が終わったらまた「つまらない・苦痛な日々」がはじまって、そのループからは永遠に抜け出せないのだ。
抜け出す方法は1つしかない。つまらない日々自体を特別にしてしまうのだ。

つまり、私が特別なことを求めなくなったというのは、
鬱を抜けてから、何気ない普段通っている道とか、その辺に咲いている花とか、散歩されているわんちゃんとその飼い主さんとか、道端で井戸端会議してるおばあちゃんたちとか、そういうものが急に視界に入るようになって、しかもそれに対していいなあとか美しいとかきれいだなという感情を持てるようになったということだ。
今まではどうだったかというと、そもそもそんなことが気にも止まらなかった。例えば何かモチーフのある絵の「背景」みたいな感じで、目に物理的には入ってはいるのだが、脳がそのもの自体をスルーしているといった状態だ。
鬱を抜けてから、と書いたが、正直何がきっかけだったのかはわからない。
アラサーになって、大人?になったからなのかもしれないし、発達障害特有の不注意が改善したのかもしれないし、単に意識の問題かもしれない。

でも、近所を歩いたり自転車で走っているだけで、綺麗なお花はその辺の道路脇や花壇、公園、素敵なおうちのお庭に咲いている。今年のアジサイのシーズンが始まって、何度あじさいが綺麗なことに感動したか分からない。

だから、有名なネモフィラ畑もチューリップ畑も綺麗だと思うけど、別にいいかなと思うようになった。もちろんそれらは近所の道端に咲くお花よりも数倍圧巻な景色だろう。でも、そのために電車で立って長距離移動したり、車の渋滞に巻き込まれたり、苦手な人混みや炎天下の暑さに耐えて見たいかというと、なかなかそう思わなくなった。だって道端の花だって同等に綺麗だよ。

カネコアヤノちゃんも、常にスマホを見る人が増えて「空を見上げる人なんていなくなっちゃうんじゃないかなって思うんですよね。」と言っていた。※1
スマホは便利だ。なんでもできるし、私もスマホが常に手に取れる場所にないと落ち着かない。
でも、帰り際に月を見上げて今日は満月だなあ綺麗だねと思うとか、ふらっと知らないお店に入ってもう二度と会わないであろう人と話すとか、ちょっと高めの入浴剤を買ってお風呂に入るのが楽しみだなあと思うとか、晴れた日に何の予定も入れずブックオフでジャケ買い本を買って公園に行くとか、
いろいろあるけど、どんなにこれから忙しくなっても、日常を特別にする努力を怠らないようにしたい。まとまりがなく、なんだか自分への誓いのようになってしまったけど、おわり!

※1 出典:


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?