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生きる価値は分かるけど、生きる意味が分からない

球脊髄性筋萎縮症は、昨日と今日で劇的に進行する難病ではないけど、1年単位で見ていくとカラダの機能は確実に落ちていく。真綿で締められるように進んでいくこの難病は、ボクと少し相性が悪い。「花は桜木、人は武士」ではないのだけど、基本的には潔く生きたいし、死に際もそうでありたいと願っている。ただ漠然と生かされていくのは、本意ではないのだ。

ボクには大切な娘がいる。このまま健やかに育てば、成人するだろう。気が合うパートナーが見つかれば、花嫁姿を見ることもできるかもしれない。そして、運がよければ孫の姿も見届ける可能性はある。ただ、遺伝的な部分で孫の部分はいろいろ悩むことになる気もするけど。

成長を見守っていくという視点から考えると、これからを生きていく価値があるのだろう。そのことは幸せの1つの形として理解することはできる。でも、ボクはどちらかというと幸せを主体的に形にしていきたいタイプだ。自分自身が物事を体験することに幸せを感じる。良くも悪くも「Give」ではなく、「Take」に価値を置いている。だから、現実のボクと理想のボクとにギャップが生まれて、そこにジレンマが生まれている。

山に登る。未踏の離島に行く。バイクに乗る。音楽で踊る。もちろんフェスにも行きたい。

まだまだやれることもあるし、やりたいこともたくさんあるけど、これからの人生では1つ1つ諦めていかなければならない。そのことに対して、悲観的にも、感傷的にもなる必要はないけど、淡々と受け入れなければならない。今のカラダの状態に合わせて、幸せの形を模索していくことが大切なのは、頭では理解できる。でも、そこまで器用に自分自身を納得させることは難しい。答えは出ることがきっとないと思うけど、生きる意味を考えさせられる。

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