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短編小説 「森が見た夢」

林業を主産業とする山村と、そこに住む父子三世代をテーマにした物語です。


第1章

二つの篝火の光が森を照らしていた。
その篝火の前で一人の老人が能を舞っている。
その場所を囲むように、同じ生成りの装束を着た数人の男が立っていた。
低く唸るような老人の声と、地面を擦る乾いた足音が聞こえてくる。
男たちから少し離れて、一人の少年がじっとそれを見ていた。
見上げると森の上に月が出ていた。上弦の月、半月になる一日前の、弓張月と名付けられた月だった。
その光景はまるで森が見た夢のようだった。

そこは樹齢百年になる杉が整然と並ぶ人工林だった。手入れが行き届いた森は、どの方向に目を向けても木と木の間隔に均一性があり、篝火の光が届かない暗闇のずっと奥までその密度は保たれているように感じられた。

時折、薪のはぜる音がどきっとする音量で森に響き渡る。篝火の薪も杉のようだ。粗く割った大きめの薪が、その瞬間赤い火の粉を撒き散らす。

もしこの永遠に続くとも思える時間に終わりを告げるものがあるとしたら、その炎に違いない。


 誰かに声をかけられたような気がして、見上げると目の前のビルの向こうがぼんやりと明るかった。
距離感なく混ざり合った街の騒音も、聞き分けようとすればひとつひとつが何から発せられた音なのかわかる気がしたが、二つ三つ試したところで僕はそれをやめた。無意味な気がした。きっとさっきの声はそこからではない。

駅前のアーケード。その入り口の前が待ち合わせの場所だった。目の前の信号機の色が変わるその度に、何度も繰り返す人の流れを眺めながら、この状況を変えてくれるきっかけが現れるのを待っている。
僕は友人を待つことに苛立ち始めていたのかもしれない。視線を足下に落とした時、その声が聞こえたような気がしたのだ。
もう一度さっきのビルの方を見上げると、その後ろから月が見え始めていた。
「今日は、あの月だったんだ」
方角的には沈んでいく月だった。今日一日空にいたのに、気づかなかった。弓張月、その月齢の月を見るたびにあの時の記憶が映像となって蘇ってくる。あえてその月齢の日を調べるわけではないが、僕はいつからか、その月を見れた夜は特別な日だと思うようになっていた。
僕が月を見たのか、僕はその月を待っているのか、月が僕を見ていたのか。

「よう!待たせた」
振り返ると、屈託の無い笑顔で友人が立っていた。現れた、僕が待っていたきっかけだ。
「ああ、お疲れ。どこ行く?」
「いつものとこでいいか。で、何考えてる」
「え、なにって…あ、悪い、イラついてたの気づいた? お前さ、毎日のように誘っといて毎回遅刻はないだろ」
「違うよ、俺が声かける前、なんか変だった。何見てたんだ?」
そう言って彼の視線は僕を通り越し、背後のビルに向けられた。「月?」その言葉には冗談を含めたつもりだったらしいが。
「ああ、そうなんだ」と僕は答えた。
「ん、なんだ、仕事の悩みか? わかったとりあえず店行こ、そこで聞くわ」
そう言って彼は雑踏の中をアーケードに向かって歩き始めた。僕もそれに続いて彼がかき分けた流れの跡を追う。
雑踏に飲み込まれようとするときに、振り返って空を見るとビルの隙間に月はもうなかった。手前のビルに隠れたか、それとももう沈んでしまったのか。
友人は月を見たのだろうか。


「室長、そろそろ交代のお時間ですよ」
その女性の声を聞いて彼ははっと我に帰った。目の前のモニターと操作パネルに集中し、意識は化学プラントのパイプラインの中を走り巡っていたからだ。
「ああ、ほんとだね。もうこんな時間だ」
振り返ろうとすると、声をかけた女性が彼のすぐ横にいたことに気がついた。目が合いそうになったが、彼はもう一度モニターへと視線を移し、交代に伴う操作をしながら言った。
「次は誰だったかな」
「田中さんと石橋さんです。もう事務所へは来られています。お呼びしますか?」
「ああ、頼みます」彼がそう言うと、「私も今日はこれで失礼します。お疲れ様でした」と言って彼女はその部屋から出て行った。
作業服に短めの髪を束ねた後ろ姿を見送りながら、「直視できるのは後ろ姿だけか」彼は心の中で呟いた。

入れ替わりに部屋に入ってきたのは石橋と呼ばれていた、彼と同い年くらいの男だった。
「お疲れ、どう?調子は」
「ああ、俺やっぱ苦手なのかも」
「は?何が。機械の調子だよ」
そう言ってから察したのか、石橋という男は笑いながら彼の肩をぽんぽんと叩いた。そして彼の前のモニターを覗き込み、表示されているデータに隅々まで目を通していった。
「まあ最初はこんなもんかもしれないな。初心者にしてはむしろ上出来なんじゃないか」
石橋は彼の隣にあった椅子に腰掛け、持っていた鞄から説明書のような書類の束と筆記用具と水筒を取り出して机の上に置いた。
「いや、理論上はもっといけるはずなんだよ。小型化のリスクはあるだろうけど、その分圧力に対してのマージンは取れているし。もしかしたら完全自動化によるAI介入が原因なのかもしれない」
「ま、それはあるだろうね」
空になった彼のマグカップに、石橋は水筒から温かい飲み物を注いだ。湯気が立ち、香りが広がる。
「いい香り…落ち着くな。ほうじ茶か」
「俺の実家で採れた茶葉を自分で焙じてみた。
 素人でも扱えるようにしようというのだから、安全対策は万全でないと。集約したデータ管理で周りの環境や気象も影響しているだろう」
「ああ、そうだな。しかしすごいことを考えたもんだ。化石燃料に頼らない自国でのエネルギー供給が政府の悲願だったとはいえ、木からこれだけエネルギーが取り出せるなんて誰が予想できただろう。バイオマス発電や、リグニン抽出してレシプロエンジン回してた時代とは違う。しかも各自治体レベルでこのプラントを設置して管理できる安全性もあって」
「わかった、お前がこの技術に心酔してるのはよく知ってるよ。だけどあとは俺に任せて、そのお茶を飲んだら今日はもう帰れ。夜は俺の担当だ」
「うん」
彼はマグカップのほうじ茶をゆっくりと飲み干し、帰る身支度を始めた。身支度といっても、筆記用具とノートパソコンを鞄に詰め込むくらいだった。作業服の上から羽織る上着は、事務所のハンガーに掛けてある。
「ところで、親父さん、伐採期最後の神事に章くん連れてったそうじゃないか。やっぱり孫には山仕事を継がせたいんじゃないか」
部屋から出て行こうとする彼を出口まで見送りながら、石橋が話しかけた。
「ああ、だろうな。俺には脈がなかったからな。だけど、俺は息子にどうしろとは言わないつもりだ。あいつが決めればいい。
俺のやってることを親父が否定的に見ていることは感じている。しかし、単位が家族であれば、村程度の社会なら今までのやり方でいいかもしれないが、人が増えれば、みんなが同じように暮らすためには新たな仕組みが必要になる。それくらいのことは親として章には伝えたいと思ってる」
その言葉を聞いて、石橋は笑って頷いただけだった。彼のことを不器用なやつだなと思っていた。「反発しているように見えて、お前のやってることも森から離れてはいないんだよ」と心の中で呟いた。

建物の外に出ると息が白くなるほど気温が低かった。その施設は山の中にあり、森に囲まれていた。
建物からはみ出したプラントの設備がライトアップされていて、見ようによってはおとぎばなしに出てくるお城のようだった。
照明の光に吐いた息が照らされていつまでも漂っている。
そんな寒さ故に駐車場に停めてあった車に急いで乗り込んだ彼は、その時自分を含む景色に気付いていなかった。
黒い森、緑色に光る建物、空には満月が輝いていた。


 その村の西側の山に日が沈み夜に変わるまでの時間を、老人はいつも決まった場所に立って見届けるのを習慣にしていた。
老人の家は谷を見下ろす山の中腹にあった。その場所から見渡せる山々はこの老人が管理してきたものだった。また、この村の森林組合とともに施業に関わった山を数えれば、その数倍の広さの森を今まで育ててきたと言える。一日の終わりに山を眺めるのは、そんな自分の生き方を確認する作業であったのかもしれない。
ふと老人は今日が満月だということを思い出した。日が沈んだ山の、谷を挟んで反対の山から月が昇ってくるはずだった。同じ満月であっても時によって昇る方角も時間も変わる。老人はその法則を知っていた。

「おじいちゃん!」
背後から老人を呼ぶ声がした。家から飛び出してきた少年が老人の方へ走ってくる。振り返り、向かってくる少年を見る老人の表情は満面の笑顔だった。
「また夕焼けを見てたの? お母さんがご飯ができたからおじいちゃん呼んできてって」
少年は老人の横に並び、老人が見ていた山の方を見た。
「ああ、木を見ていたんだよ。一本一本ね。ここから見える木は全部知っている」
「全部おじいちゃんが植えたってこと?」
「いや、全部じゃないな。あのあたりの大きな木はおじいちゃんのおじいちゃんが植えた木だ。それをずっと守ってきた」
老人が指を刺す方向に目をやりながら、少年はその話の時間的なスケールをどのように理解したのか。世代を超えるということが遥か遠い昔と感じるか、逆に自分まで辿ることができる身近なことだと感じるか。
しかし、量的なスケールに関しては多少信じがたかった。見える木全部というのはあまりにも多すぎて、一本一本を覚えることなんて無理だと少年は思った。

「章ー、おじいちゃーん、」少年の母親が待ちかねて玄関から出てきて二人を呼んだ。
少年と老人は同時に家の方に振り返って彼女の方を見た。その視線を感じてか、それに続く彼女の言葉はなかった。終わりかけの夕焼け空を背景に、二人一緒にこちらへ歩いてくる姿に愛おしさを感じて。
「不覚…(おつかいをきちんと遂行できない息子と、気ままな義父に少しは小言を言うつもりだったのに)さ、早く入って、ご飯食べよ」

玄関まで来ると家の中の明るさに安心し、漂う料理の匂いに他のことを忘れて安堵する。
老人は、彼女の世界に取り込まれる心地よさも知っていた。


第2章

「よーう、信さんよう」
谷に響き渡る大きな声とともに一人の男が坂道を登ってくる。
朝焼けから赤みが消え、山の峰から昇り始めた太陽が朝露を一層輝かせる。
早朝、また老人はあの場所に立っていた。坂道を登ってくる男は老人を見つけて声をかけたのだった。
「おう、浩さん早いなあ、もしかしてあれがもうできたのか」
「おうよ、他でもない信さんのご注文だからなあ、早く見せたくてよ」
浩さんと呼ばれた男の小脇には、先端が油紙に包まれた腕の長さくらいの棒状のものが抱えられている。浩さんはこの村の鍛冶屋だった。農機具、大工道具、機械部品や生活用品に至るまで、鉄のものならなんでも作る。浩さん自身は鍛造専門だったが、息子が金属加工で旋盤やフライス盤での削り出しや、曲げや溶接までやるので、屋号は鉄屋と呼ばれていた。
「しかし、その御歳で鳶を新調するとはどういうつもりだい、おかげで仕立てが難しかったぜ」
浩さんが抱えていたのは林業で使う鳶口と言われる道具だった。切り倒した木を人力で移動したり積み上げたりするときに使うもので、木に刺さる先端の形状が使い勝手を左右する重要な部分だと言われている。
「ああ、今まで使ってたやつが使いにくくなっただけだよ」
「そりゃそうだろうよ、力仕事は若いもんに任せとけばいいんだよ、重機だってあるしよ…」そう言った時、老人の表情が少し曇ったのを浩さんは見逃さなかった。
「あ…まあ見ろよこの名刀を。信さんの体つき、振り下ろす癖、引っ張る力、全部計算して角度出してんだから。刺さる深さも絶妙だぞ、抜けにくく抜きやすくな」
「ああ、ありがとう老いた力も計算してくれて」わっはっはと笑いながら老人は浩さんから鳶口を受け取った。
樫の木でできた柄は真っ直ぐで、握りやすい断面に削ってある。老人の体格に合わせて片手でも両手でも使える長さにしてあった。老人は試しに足下にあった切り株にその鳶口の先端を打ち込んでみた。トンっと軽い音がしたが、しっかりとその嘴は丸太の断面に食い込んでいる。柄の方向に引っ張ってみてもがっちりとその力に耐えているが、老人が一瞬手首を鞭のように振るうとすっと抜けた。
「ああいいね、さすがだ」
「だろ」わっはっはと浩さんも笑った。「山ばっか行ってないで、たまには鉄屋にもおいでよ。気分転換に槌振るうのもいいぞ」
「ああ、そうだな、たまに叩かないと腕が鈍るよな」

老人たちの話が道具談義から世間話に話題が移る頃、背後の家から、母親に見送られて少年が出てきた。子どもたちが小学校に行く時間をきっかけに、この村の全てが動き始める。鳥の声に象徴される静かだった朝の空気に、いつしか職人たちの気配が混ざっている。
「おはよう章、行ってらっしゃい!」浩さんがまた、よく通る声で少年に声をかけた。
「おはよう、行ってきまーす!」
少年は小走りに坂道を下って行った。

道の両脇には畑があって、朝から野良仕事をする人の姿が見える。少年の背中でかたかたと鳴るランドセルの音が通り過ぎて行く。そのリズムから子どもの歩幅を感じ取れた。
坂道の上から聞こえる楽しそうな老人たちの話し声は次第に遠くなっていき、少年の頭の中は学校での生活に切り替わっていった。

今歩いている道の傾斜が少し緩やかになる頃、家が立ち並ぶ通りに出る。木造板壁瓦屋根に特徴的な大きなガラス窓、建物のデザインには統一感があり、同じ規格で建てられているようだった。そしてどの家も何かしらものづくりの商売をしていて、さしずめそこは職人通りとも言える。
一番上にある少年の家は祖父が林業で山行きをしながら、家具大工もしていた。そのように、この村のほとんどの人が兼業の林業家であって、閑散期は別の仕事をしていることが多かった。また、先程の浩さんが言っていたように、それぞれが持つ技術を教え合い、仕事を手伝い合うことも日常的に行われていた。人口の少ない村であっても大きな仕事をする時には協力しておさめる。それは林業によって培われた習慣であり関係かもしれない。専門分野はそれぞれあるのだが、みんながいろんな技術を一通り経験していた。

職人通りにはやはり木に関連する職業が多かった。そこには生活に関するあらゆるものが揃っていた。建築、建具、樽桶、指物、器は木地師と塗師、紙漉き、もちろん陶器やガラス職人もいて、それに必要な薪と炭の職人もいる。そして大きな工場の鉄屋、雑貨屋も兼ねた縄屋、布屋は衣服も扱う立派な店構えだった。
そして、その通りを下り切ったところに小学校はあった。

少年が歩いているとあちらこちらから声がかかる。少年の祖父が村の総代をしているという理由もあるが、少年の父親がしている仕事も今は村の話題のひとつだった。それについて聞かれることもあった。この村で働くというと、家の仕事を継ぐか役所に勤める以外の選択肢はない。少年の父親は長男ではあったが家業を継がず市役所の職員になり、数年県庁に出向して村に戻ると、ある部署の責任者となった。その仕事については少年もよく理解できていなくて、聞かれても答えられることはほとんどない。何かに夢中になっていて、朝早く出て行って夜遅く帰ってくるということくらいだった。
この通りに面して連なる職業には、自分もやってみたいとか、あれは無理とか、心に生じる興味を指針として自分の将来に重ねて考えることもできた。
しかし父親の仕事には、そういうものと比べられる形も重さもないような気がした。

ある店の前に立っていた少女が、歩いてくる少年に気づいて手を振った。
「あきらくん、おはよう」
「おはよう」
少年と同じ5年生の裕美は布屋の娘だった。いつも彼女の家の前で少年と合流し、そこから何人か低学年の子どもたちを迎えに行きつつ登校することになっていた。
大人が決めた決まりなんだから仕方ない、というふうな少年の表情も誰が見ているわけではない。次の子どもの家まで二人で歩いて行く。
少し小柄な少年と裕美の身長は同じくらいだった。横に並んで歩く姿は誰が見ても普通に小学生が登校している姿に見える。ただ、二人の感じ方には多少の違いはあったものの、自分たちが今までより少しだけ大人びたことをしている気がして、緊張しつつも楽しかった。
「ゆみちゃん、宿題やった?」
「やったよ」
少し俯き加減で歩いていた少年は、裕美の方に振り向こうとしてやめた。道の向こう側にある家の大きな窓ガラスに自分たちが映っている。少年はガラス越しの自分と目が合った。その向こうで裕美はまっすぐ前を向いて歩いていた。
「だけど、算数は苦手かな。ずっと数字を見てると頭が痛くなっちゃう」
「へえ、そうなんだ。得意なのかと思ってた」
「ううん、本当はだめの。がんばってるだけ… あきらくんは算数得意だよね」
「うん、まあ、好きかな」
「いいなあ、うらやましい。算数できたらきっと楽しいよ」
「そうかな」
「そうだよ。大人になったら…」

並んで歩いている二人の後ろ姿を見届けながら、彼は車で坂道を下っていった。いつもより遅い出勤時間だったのは、今日は山の発電所ではなく県庁へ行くからだった。
新しいエネルギーシステムを導入した自治体が集っての月例の報告会議に出席する。「そんなの、リモート会議でいいじゃないか」と、少しでも研究に時間を費やしたい彼はそう思った。この村の山奥にある発電所と、県庁までの道のりは同じ一時間程度だったが、誰ともすれ違うことがない山道を淡々と走り続ける一時間と、街に向かう道を走る一時間は全く別のことをしているように感じられた。
「その先にある希望、なのかもしれない」
新しい技術によってより良くなるはずの未来を想像しつつ、その恩恵を消費する巨大な胃袋のことを無視できない。それがもし純粋に街のためであったなら、彼は昨晩のように父親と言い合いにはならなかっただろう。それによるモヤモヤした気持ちもあり、その一時間は重く長く感じられた。
彼はハンドルを握りながら、昨晩のことを反芻している自分が嫌だった。山道を走っているならこんなふうにはならなかったはずと、道のせいにもしたかった。

「おかえり、今日は早かったのね」
「ああ、石橋が早めに交代してくれたからね」
「近頃ずっと遅かったもの。石橋さん気を遣ってくれたのね」
「そういうシフトに変えようって、あいつが。だけど仕事のことを考えたらやっぱり、結果を早く出したいから気になるよ」
「そっか。貴くんは昔から変わらないなあ… 明日は県庁なんでしょ。ゆっくりご飯食べて、今夜はちょっと飲みますか」
「いいね、そうしようかな。付き合ってくれるなら。章はもう寝たの?」
「もう少し早かったら起きてたんだけど。たまには相手してやってね」
「そうだな。ほんとだね」

彼が座っている椅子は、家具職人でもある彼の父親が作ったものだった。素朴でありながら無骨さはなく、簡単な数式と記号によって生み出されたような形をしていた。またそれは一人の職人の手によるものというより、様式を感じさせる説得力もあった。
彼の目の前の、今次々と料理が並んでいく食卓テーブルも、様々な収納家具にも、その様式による統一感があった。
この村の家々とそこで使われる生活の道具のほとんどは、この村の山から採れる木材によって作られる。木材はこの村の人の手によって形を変える。デザインは条件から生まれる。

すべての料理を並べ終え、彼女は彼の向かい側に座った。「お疲れ様でした」と言って彼の手元にあったガラス製の猪口に徳利を差し出す。彼は猪口を手に取りそれを受けた。そして、ゆっくりと一口で飲み干した。
「ありがとう、いただきます」
彼女に見守られながら、彼は箸を取った。彼を見ながら、彼女は空になった猪口にもう一杯酒を注いだ。

この村の陶芸家の手による器や皿に盛り付けられた料理は、今できたばかりのように湯気を立てて彼の前に並んでいた。彼女の料理は野菜が中心で、煮物、汁物、揚げ物、そのまま焼いたものなど、野菜に合わせて旬の味を一番味わえるよう調理してあった。そして一番小さな皿には主菜の肉料理、鹿肉ロースの一口ステーキがインゲンの胡桃あえと一緒に乗っていた。
「うまい… 」彼は一口食べると顔がほころんだ。彼女の意図を感じたのだ。
彼は最初に主菜の付け合わせから食べる癖があって、それを彼女も知っていた。色鮮やかなインゲンは見た目以上にしっかりとした味付けがしてあり、食欲をそそった。
「体は大丈夫? 無理しすぎはだめだよ」
「それがさ、体もね、今までで一番無理が効くような気がするんだ」
「その言葉を聞いて、私が安心すると思う?」
「あ、ごめん。だけどほんとに体力的には全然しんどくはないんだ。ただ… これは君にだけ言うけど… 自分の仕事が豊かにする人の暮らしって何なのか。俺が今ここで君の料理を食べながら感じているものにちゃんと由来しているのか、わからなくなることがあるよ」
「心の疲れが一番しんどいんだよ。責任あるもんね。期待もされてるし。だけど、そこで悩む人でよかったなって思うよ」
「技術そのものは、ほんとに素晴らしいと思ってる。結果が出るごとにわくわくするんだ。やりがいのある仕事だよ」
彼は一旦箸を置いて、彼女にもう一つの猪口を手渡した。「君も」そして彼女にも酒を注いだ。
「その技術をどう使うかはすでに決まっていることで、俺はただ目の前の仕事として頑張ろうと思う。まだ少しずつだけど、この村にも発電所の電気が届いているんだ。ということは君にも、章にもね」
「それはありがとうございます。ふふっ」彼女は小さな盃を両手で口に運びひと口飲んで「電気って見えないからわからないね」そう言いながら猪口をテーブルに置いた。
「そうだね。見えないけど毎日送ってるんだ。いつもありがとうって」
「ありがとう? ふふっ、貴くんちょっと酔ってきたんじゃない?」
「いや、純ちゃんにはいつも感謝してるよ。うちの母親が死んでからずっと家のこと任せっきりで。あんなめんどくさい親父の世話までさせて」
「そんなことないよ。いいおじいちゃんだよ」
確かに彼の顔は少し赤くなっているように見えた。

「なんだお前、帰ってたのか」
その時、二人が話をしていた部屋に老人が入ってきた。

「父さん… ただいま。今日は少し早かったんだ。これからはこの時間には帰れるようになる」
食卓に向かって歩いてくる老人が席に着くまでに、彼は父に伝えようとする説明を言い終えた。
「そうか」老人は彼の斜向かいの席に座り、「香純さん、わしももらおうかな」と彼女に微笑みながら言った。
「はい、」彼女は席を立ち、新しい酒と盃を取りに行った。「久しぶりじゃない?二人で飲むのって」
「ああ、そうだな」と老人は言った。
「ほんとだね、あれ以来かな… 」と彼は言った。「母さんの」
彼女は老人の前に箸と、白い蓮根のきんぴらが入った小鉢を置き、老人に酒を注いだ。

「どうなんだ、仕事の方は。うまくいってるのか」
「ああ、起動はうまくいったんだけど、まだまだ出力が上がらなくて色々試しているところだよ」
二人が話し始めるのを見て、彼女は空いた皿を片付けて台所に向かった。
「木はまだ足りているのか、その研究のための… 」
「あの発電所を作るときに皆伐して出た原木はもうなくなって、今は木質バイオマス用の材を回してもらっているのと、県有林からも直接間伐材を入れてもらってる」
「発電の仕組みについてはよく理解していないのだが、その話だけ聞いてると、あまり効率のいいもんじゃなさそうだな」
「いや、そうじゃないんだ。発電というと従来のバイオマス発電と同じと思われがちだけど、全然違うんだよ。エネルギーの地産地消という意味では共通しているけど、目標とする規模がはるかに今回は大きくて、それを実現できる可能性が高いんだ」
「目標? …それは何だ」
「この国の発電量の半分をこれでまかなうという目標だよ」
「それは大層な目標だが、そのためにどれほどの木が必要だというんだ。それが現実的な話なのか、いやそうではない、お前は知ってるはずじゃないか、木は人が関わるからこそ継続性がある資源だということを。それを、発電のために毎日数十トンよこせと言われてもすぐに納得できるものじゃない」
「たしかに、今までのバイオマス発電だったらこの村の300世帯でさえ年間2000トンもの木が必要だったけど、新しいシステムではその同じ量で市の3000世帯にエネルギー供給ができるはずなんだ。父さんの木に対する思いはわかってるつもりだよ。だけど、父さんだって電気を使うだろ。車だって木工機械やチェンソーだって電動で、重機もバイオディーゼル。木を材木以外の用途で使うのは今は当たり前のことじゃないか」
「結局お前はわかってるつもりというだけだ。わしは数字の話をしてるんじゃない。行政にとっては数字で要求し数字で量ろうとするが、その一本の木でさえ人が伐って人が山から出すしかないんだぞ。
 木はその形となるのに、偶然とも言える自然の条件とどれほどの人の労力が必要であったか。また方法を間違えばその森が再生不能になることもある。わしが言いたいのは、そのエネルギーシステムができたとて、それを必要としない暮らし方も、森と共に生きる生き方も否定するなということだ」
「そんなことを僕は言ってるんじゃない。どこが否定なんだよ。全てのバランスを考えて事業を計画するのが行政だ。父さんの言う暮らし方にも経済効果があるはずだ」
「そんなものはいらないと言ってるんだ」
そう言って老人は席を立ち、彼に背を向けて部屋から出て行った。

彼はその後、酒がなくなるまで一人で飲んでいた。彼の妻、香純が何度か声をかけたが答えなかった。


第3章

アーケード街はその両側に色々な店が並んでいて、それぞれの光を放っていた。飲食店、ファッションブランド店、楽器店、書店、靴店、眼鏡店、ドラッグストア。ひとつひとつはそれぞれが主張する光なのだろうけど、混じり合うとぼんやりしてしまう。
明るいアーケードの照明よりもさらに明るいショーウィンドウが続くと、薄暗い店内に目を惹かれる。
さっきから僕らの後ろには飲み会に行く大学生のグループらしい賑やかな集団がいて、やたらテンションの高い男の声とそれにやたら相槌を打つ女の子の笑い声が耳についた。
ついこないだまで自分もその中にいたはずなのに、今はその明るさに苛立ちすら感じている。

その時目の前を歩いていた友人が、彼の前を歩いていた人を追い越すと姿が見えなくなった。話は店で聞く、と言った通り、友人は早足で僕の前を歩きながら何も喋らなかった。話の内容を察してか、この人混みの中を横に並んで歩くとしても、もっと楽しそうな話ならそうしたかもしれない。
姿が見えなくなったのは、この明るい通りから横道に入ったからだった。僕も彼を追ってその路地のところで曲がった。
その明るさは、いや暗さはまるで別の街に来たようだった。たった一筋入るだけで人もいなくなった。

電柱に付けられた街灯が頼りのその路地の先に、一軒だけ灯りのついている店があった。古ぼけた木製建具の隙間から、店内の照明に照らされた煙が立ち上っていくのが見える。
いつもの店、お目当ての店とはそこだった。暖簾には店の名前が染め抜かれている。『鉄板焼すみれ』
がらがらっと戸を開けて中を覗くと、外の人通りの少なさから一変して店内は満席に近かった。
「早く入ってそこ閉めて、虫が入る」
大きな鉄板の前で調理をしていた女性はそう言うと、顎で鉄板の前のカウンターに座れと合図した。両手に持ったコテで手が塞がっていたから、なのか、いや僕らが常連客だから。眉間に皺を寄せながら口元で少し笑っているのが僕らにはわかった。
「豚玉もちチーズ」と先にカウンター席に座った友人が注文した。
「じゃあ俺はネギすじこんにゃく、ポン酢で」
と注文しても女将さんは何も言わず、今焼いているお好み焼きから目を離さない。ここは今となっては珍しい『頑固な店』だった。気に入らない客の注文はいつまで経っても作らない。客が怒って出ていくまで何も言わず相手もしない。一目で気に入られるか、顔を覚えてもらえるまで通うか。だから店にいるのは大体常連客で、連帯感というか安心感というか、客同士で意気投合することもあった。ただ、酔ってハメを外すと店から追い出される。
僕らも最初の頃は注文したものと違うものが出てきて、それを食べて帰ったこともあった。
「お前砂ズリ食うだろ。おばちゃん、ズリ二人前レモンたっぷりね。それとビール2本もらうよ」
そう言って友人はカウンターの後ろにあったガラスの冷蔵庫から中瓶2本とグラスを取り出した。
それをちらっと見た女将さんは、鉄板にごろごろっと砂ズリをふた掴み広げて塩胡椒と、半分に切ったレモンを両手で丸ごと絞り切った。友人が振り向いて席に着こうとする頃には、体重をかけたコテの間から湯気が立ち上がり、店中にレモンと肉の焼ける匂いが広がっていった。
友人が瓶の栓を抜いて僕にグラスを渡し、ビールを注ぎながら「さて、話を聞こうか」そう言った時、二人の前にパリパリのおこげまで付いた砂ズリ焼きが二皿、とん、と置かれた。
「なに、おばちゃんも聞くの?」
「当たり前だろ」と女将さんは腕組みをしてそこに立っていた。

そう言われても。
友人は僕が何か相談したいことがあると思っているらしいが、別にそんなことがあるわけじゃなかった。
だけど、彼が察するように最近僕は何かに苛立っているというか、満たされない気持ちがあることは確かだ。
仕事に不満があるのかと言われてもわからない。日々忙しく、次々と新たな案件が積み重なっていき、必然的に複数を同時進行している状態。
ひとつ終わればまた次と、どこに区切りがあるのかわからないくらい延々と続いていて、この数年はあっという間だったし、振り返る暇もなかった。この先もそうやって望まなくても実績は積み上がっていくんだろう。仕事というのはそういうもんじゃないのか。
やるべきことははっきりしているし、だからこの忙しさは充実とも言える。この先どうなるのかとか、どうなりたいかとか、例えば自分の理想があってそれに沿わないことをしていると感じれば不安になるだろうし、それを仕事のせいにするなら不満を誰かにぶつけてしまうかもしれない。
だけどそうじゃない。僕はただわからなくなっているだけなんだ。迷子のように。
状況に身を任せていれば必ず結果に辿り着くものを、あがくつもりなんてない。

僕はビールを一口飲んで、少し考えたけどやはり今ここで話す言葉が思いつかなかった。
「あのさ、別に相談したい悩みとかないんだけど…
 あ、すみません女将さん期待させてしまって。豚玉とネギ焼きお願いします」
女将さんは何も言わず少しがっかりした表情で料理の材料を取りに行った。
「なんだ仕事の悩みじゃないのか。まああんないい会社で働いててそれもないか」
友人はうまそうに砂ズリ焼きをひとつ食べて、グラスのビールを飲み干した。
「だけど… いいや、今日はお前の話を聞くつもりだったんだ。なんでもいいよずっと喋ってろ」
「また、乱暴な言い方だな。
 じゃあ… さっき、お前月見えたの?」
「月? ああ、ちらっとな。そうだお前こそ、なんかあんのか月に」
「ああ、あの月齢の月にちょっと思い出があって。子どもの頃なんだけど、凄く印象に残ってる。
 うちのじいちゃんが林業をしてるって前に言ったことあっただろ。うちの村ではその伐採期の終わりに行う神事があって、それにじいちゃんが一度だけ連れてってくれたことがあったんだ。その時、さっき見た月と同じ月齢の月が出ていたんだ。
 神事と言ってもストーリーのある能のようなものだった。焚き火の火に照らされた何人かの人の輪の中で、じいちゃんが面をつけて舞っていた。意味はわからなかったけど、少し怖かったのと、よく知ってるはずの大人達がその時は別人のように見えて不思議だった。見上げると山の向こうにあの月が出ていて、なんというか全てがひとつの景色になって完成していた。
 それ以来、なぜかその月齢の月を見るたびに気持ちがざわつくというか、何かが起こりそうな気がするんだ」
「なるほどね、だからさっきぼーっとしてたのか。だけどそれもなんか他に理由があるような気がするけどな」
「他の理由?」
「そう、そんなことを思い出すのも、何か理由があるんじゃないかってこと」

目の前の鉄板で女将さんが僕らのお好み焼きを焼き始めた。
熱せられた鉄板に材料が触れたときの音が、無性に食欲をそそった。

「アキラくんの仕事って、たしか繊維の会社だったよね。ENGIだっけ」
そう言いながら女将さんは、僕らの前の鉄板に油壺で油を薄く引き、焼き上げたばかりのお好み焼きを運んできた。
「はい。木から糸を紡いで編んだり織ったりして布を作る会社です」
「最近はアパレルブランドも人気だよな。いただきまーす」と、友人はコテで豚玉を切り分け、ひとくち頬張った。
「ああ、俺はそこのリサイクルファブリックの部署で働いてる」
「え?リサイクルだったら製造の方じゃないの」
「いえ、うちのアパレル部門が好調なのは、もちろんデザインとか機能性も好評なんですけど、在庫や中古まで回収してもう一度分解して糸から紡いで再生しますってコンセプトが話題になったんです」
「へえそうなの… 知らなかったわ。でもそんなこと、手間がかかるだけじゃないの」
「それが、これはどこのブランドもそうなんですが、生産した製品の50%以上が実は売れずに在庫になっていて、セールで売ったり海外で売ったり寄付したり、それでも残ったものは廃棄です。うちの服は木から作られるので、原料を大事にしたいという社長の思いからリサイクルを始めました。
 各店舗から在庫を回収し、ユーザーからも特典を設けてうちの古着を集めて、新しいデザインの服を作るサイクルにしたんです」
「えーおばちゃん知らないの? 随分前に賞とか取って結構話題になったのに」
「わるかったねえ着の身着のまま、目の前の鉄板がこの世のすべてなもんで!
 ごめん話しかけちゃって、早く食べな」
「はい」僕はネギ焼きをコテで口に運んだ。甘辛いすじ肉とこんにゃく、荒く刻んだ九条ネギがたっぷり入ったネギ焼きに、女将さん特製の柚子ポン酢の酸味が最高だった。

その後話題はなんでもない世間話になっていき、女将さんは他の客の相手で忙しくなり、3本目の中瓶を空けた時、友人はまた僕に居直って話しかけてきた。
「それで一体何が気になってるんだ。今の生活に不満なんてなさそうだし」
「ああ、そうだな…
 ひとつ聞いていいか?」
「なんだよ」
「お前、月がどの方角から昇るかわかるか?」
「また月かよ。
 昇る方角って、東からだろ」
「だけど、真東じゃないよな。一定じゃない」
「そりゃ季節によってずれるんじゃないのか、太陽と一緒で。冬は南寄り、夏は北寄りってことだろ」
「それが、そうじゃないんだ。今まで誰に聞いてもお前と同じような答えだったり、わからないって言われたり。ちゃんと答えられる人がほとんどいなかった」
「なに、じゃあお前はわかるのかよ」
「いや、俺もわからない。だけど、今までに二人だけ月が昇ってくる方角を言い当てた人がいたんだ。一人は俺のじいちゃんだ。
 また子どもの頃の話だけど、俺はよくじいちゃんと谷を見下ろす庭先の展望台みたいなところで、山と夕暮れの空を眺めたことがあったんだ。満月の日はその時間に山から月が昇ってくる。その月が山のどの辺りから昇るかを当てる遊びをした。だけど、俺はほとんど当てることができなくて、じいちゃんは100%言い当てるんだ。間違いなく、指さした方角から月がゆっくり昇ってくる。俺は悔しくて学校で習ったこととか少ない知識を駆使してここだ、って予想するんだけど全然当たらない。子どもだったから、じいちゃんすげー、で終わったけど。
 それから大学生になるまで、わからないままそんなことも忘れていた。
 だけど、また現れたんだよ言い当てるやつが。覚えてるか、ヒロキだよ」
「ヒロキって、学生時代お前の相棒だったやつか。中退した。たしか、お前とオーストラリアへ行ったよな」
「そうバイクで砂漠を走って2ヶ月かけて横断と縦断と。その旅の中で、俺はその日が満月だということを思い出して、昔じいちゃんとやった遊びをその時何気なくやったんだ。
『太陽があっちに沈んだから、月はこっちからだな』と指さした。360度地平線で、太陽が沈むのを確認し、方角は間違いなかった。だけど、ヒロキは俺とほぼ90度違う方向を指さしたんだ。
『俺はこっちだと思う』って。
正解はヒロキが指さした方角だった。
俺はまた悔しくなって、結局あいつがなぜわかったのか聞けなかった。その旅を計画した時にした約束で、途中で別れて半分の行程は一人ずつ走ろうということになっていた。だから聞くチャンスもなく、俺の方が先に帰国し、あいつと日本で会ったのはさらに半年後だった」
「そうだったな。あいつの休学届けを出したのは俺だった。あいつはまだ海外にいて、同じアパートに住んでたってだけで頼まれて。でも帰ってくるなり退学届だよ。四年の夏に」
「まったく、急すぎて話す時間もなかった。月のことなんて聞いてる場合じゃなかったよ。
 その後、色んな人に機会があれば聞いてみたんだ。だけどその法則をちゃんと答えられる人、わかる人は誰もいなくて、唯一生物学者だって人が調べてくれたら、地球の公転と自転、そして月の公転が関係してるから非常に複雑だということだった。つまり、その難解な計算をそのゲームごとにやるか、統計データを記憶しているか、100%当てるってことはそういうことだと。
 でも二人がそんなことしてるわけがない。俺は思ったんだ、それがわかるわからないが俺とヒロキ、俺とじいちゃんとの違いなんだって」

友人は少しうつむいたまま僕の話が終わるのを待っているようだった。手に持っていた空のグラスをカウンターに置くと、横目で僕を見ながら長く息を吐いた。
「今の話を聞いていろいろ言いたいことはあるが、俺から見ればお前もそっち側の人間だよ」
友人がそう言った時、僕のなかで何かが変わった気がした。これから彼が話す内容すべてに同意できる、そんな安堵感すら感じていた。言葉の意味は今までの僕の話を覆すものなのに。
「学生時代、お前とヒロキは、俺とは別の世界に生きているように感じてたよ。同じものを見ても同じ音楽を聞いても、まったく違うことを読み取っているような。
 そんな二人が、この世界に二人しかいないような場所へ旅をしに行くって。なんでそんなことをしたいのか俺には理解できなかったけど、なんかすげーって思ったよ。
 お前さ、わかるとかわからないとか言うけど、人間て二通りあると思うんだ。わからないことがあると、その意味や、なぜそうなのかって理由や、なぜそうなってるかって法則を探して、考えて、それが見つかればそれについてわかったことにする。もしくは法則に従うことがわかってる状態だと言って安心する。だけどそれは誰かが考えた、それに与えたルールだ、ロジックだよ。
 だけどそうじゃないところで理解する人間もいる。そこにそのようにあるってことを受け入れるような理解の仕方。その意味も、法則も必要なくて、それの名前すら知らなくていい、わかり方。
 言葉で誰かに伝えようとするから、どうしても説明はロジカルになる。自分はわかっていると思われたいからルールを知りたがる。知らなければ拒絶されることもあり得る世界で生きてれば、そうじゃないやつも学習してわかったふりしてることもあるだろ。
 ほんとはさ、どっちがいいとか優れてるとかいう話じゃないんだよ。
 最近のお前を見ていて、少し危うい気がしたんだ。だから毎日誘ってた。ふりをすることに疲れてるんじゃないのか。もういいよ、やりたいことやれよ。社会人になってからのアキラって、いい子すぎんだよ」
こいつこんなこと言うやつだっけ。まったく、いつから僕のことをそんなふうに見ていたんだろう。
彼を待っていたときに聞こえた声がどこからだったのか、今はわかる気がした。
「わっかたよ。ありがとう。
 俺のやりたいこと、たしかにあるんだけど今は言葉にしないでおく。
 今度、じいちゃんに会ってくるよ。どうするかはそれから決める」


第4章

「あ…
 なんだか、懐かしい匂い…」
その建物の中に入ってすぐに彼女は立ち止まり、そこから見える景色をゆっくりと見渡した。円形と言ってもいいくらいの多角形をした建物の、外部に面する壁面はすべてガラス張りになっており、それに沿って回廊が続いているようだった。少し高めの天井には所々に天窓があって光が差し込んでくる。昼間のこの時間帯なら特に照明がいらないほど自然光で十分明るかった。その光に浮かび上がる美しいアーチ状の構造は木製で、内装においては床はもちろん家具什器もすべて木製だった。
しかし懐かしく感じた匂いとは、それによるものだったのか。彼女はもう一度建物の中を見渡した。

入り口で立ち止まっている彼女に気づいて、軽く会釈をしながら二人の男性が近づいてきた。
「どうかされましたか」
「いえ、素敵な建物で圧倒されました。しかも外からは想像できない木の良い香りに感動していたんです」
「ありがとうございます。そう言っていただけると設計者として光栄ですね。できるだけ木を感じてもらえるように人が触れる部分以外は無塗装にしてあるんです。塗装しているところもシンプルな植物性オイルのみを使用しています」
長身の男性はにこやかに説明しながら建物の奥の方を振り返り、また彼女に向かい直した。
「ご紹介遅れました。こちらはこの小中学校の校長先生です」そう言ってもう一人の男性を紹介した。
「池本です。よろしくお願いします」もう一人の男性もまた笑みを浮かべながら軽くお辞儀をした。
「よろしくお願いいたします。わたくし建築出版社の瀧岡と申します」彼女は名刺入れから名刺を一枚取り出し、両手で差し出した。「お忙しいところ申し訳ありません。明日から新学期とお聞きしましたが」
「そうなんです。一昨日が入学式でした。やっとここまで来たという感じです」
「校長をはじめ先生方のご意見をいただきながら、できるだけその思いを忠実に形にしようと時間がかかってしまいました。申し訳ありません」
「いやいや、素晴らしい校舎を建てていただいて感謝しています」
話をしながら歩いている三人を追いかけて、また一人の男性が入り口の方から小走りに近づいて来た。
「瀧岡さん、外観は撮り終わりました」彼の首と肩には一台ずつカメラが下がっていた。手には三脚を持っている。
「ありがとうございます。じゃあここからは一緒に、お話しされているお二人のスナップをお願いします。室内はお話お聞きしてから後ほどあらためて回りましょう」
「わかりました」

二人の男性がさまざまなところを指差しながら、思い出話をするように語り合っているのをカメラマンは撮影していく。それを見ながら彼女は不思議に思った。その建物には回廊から中心に向かって床に区切りらしいものはなく、間仕切りといえるものもなかった。唯一空間を仕切るものが本棚だった。それも建物自体が多角形のためか平行には並んでおらず、その前には不規則に学童机が置かれていた。机の数からするとそれがひとクラス、子どもの数からすると一学年なのか。その本棚と机の群ごとに天井の照明があることから、そこが教室であることがうかがえた。
「ここが教室なんですか?」
「そうです。教科によってエリア分けされており、子どもたちは自由に行き来できるようになっています。学年はありますが、クラスはありません。教員はエリアごとに数人配置します。公立の学校でこのスタイルを導入できたのは、あの制度改革のおかげですね」
「教育委員会がなくなり、学校ごとに教育のあり方を話し合って決められるようになりましたから、これを機に新しい学校が次々生まれてくるでしょう。私たちはそこでの学びをイメージして空間デザインしていったわけです」
「そうなんですか。しかし、この環境に馴染めない子もいるのでは?」
彼女がそう言うと、長身の男性はその場所から少し離れたところにある四角い小屋のようなものを指差して言った。
「デンです。周りを遮断して落ち着く場所として、個室として使ったり、少人数で話し合ったりできる場所として使います」
見渡せる広い空間であるために、そのデンが点在しているのも容易に確認できる。しかし、自分がした質問にそれは答えになっているのか、彼女は少し考えたが、それ以上聞くのはやめておこうと思った。仕事ではない、個人的な疑問だと思ったからだった。
そんな彼女の様子を見て、校長が何かを察したのか彼女に質問した。
「瀧岡さんは教育にご興味がおありなんですか?」
「あ、いえ… そういうことでは…
 校長先生、実は私、教員免許を持っていまして、教員を目指していたんです。採用試験には受からなったので教育実習は行けなかったんですが。
 なので興味があると言っても、私にとって教育は知識でしかありません。仕事柄、こういった新しい学校建築を取材することもありますが」
「そうか、その改革の時期に学生だったんですね」
「はい、でもそのおかげで就職活動はできましたし、こうして出版社にも入れましたから。建築も好きですし…
 すみません、私、なんの話を」
「いいんですよ。疑問を持たれるのは仕方ないことです。私もここに至るまで長い道のりでした。
 多分この環境だけを見ると、グロテスクと感じる人もいるでしょう。大人の考えの押し付けだらけで。しかしそれを私たちは配慮と言う。またそれに嫌悪感を持つ人もいる。教育とは今あるものを批判し続けた歴史です。
 私が出した答えとは、子どもが自分でバランスを取っていることを尊重するということです。私はここで起こることを楽しみにしているんですよ」
そう言いながら校長は、そこにあった学童机にそっと触れた。

池本校長の話を聞きながら、彼女は今いるこの校舎の構成をもう一度思い返していた。そこに子どもたちがいることを思い浮かべ、過ごす時間のことを。
大きな窓の回廊沿いに置かれたベンチに、本棚の前に、教室と呼ばれる空間で先生と話し合う姿、デンで一人静かに読書する子どものことを。
そして何気なく校長が手を置いた学童机に視線を移すと、そこだけ他の構成物と違う空気感があるように感じた。
「校長先生、その机は?」
「お気づきになられましたか。この建物の設計から内装のデザインまではこちらの設計事務所にお願いしたんですが、家具に関してはある家具職人に依頼したんです。私の知人でしてね、理解者の一人です」
「そうだったんですね… 椅子と併せてすごくシンプルなデザインですが、確かに学校用の机としてはあまり見ない形ですね。しかも小学生用としては高さの調節機能がないのは珍しいですね」
その机と椅子は杉でできていた。一般的に普及している規格より少し大きめのサイズだったが、材質からすると同じくらいか、もしかすると軽量なのかもしれない。直線的な面と線の構成でありながら、どこかあたたかみを感じさせるデザインだった。
「これは現場の先生の声を要望としてその方に伝えました。子どもたちが教室でエリア間を常に移動すること、時に机を寄せ合って大きな会議机や作業台にもなるように高さを統一し重量も考慮してあります。そして何より、この質感がいいでしょ。ここだけは人の手の跡を感じさせるものにしたかったんです」
校長はその机の周りを歩きながら、天板や側板、椅子の背もたれに触れては何か思いを巡らせているようだった。
「校長先生のこだわりの部分なんですよね」設計士の男性も今まで何度も聞いてきた話だったらしい。「私たちもこの学童机がある空間をイメージするところからスタートしましたから」
「子どもたちが過ごす時間を共有し、記録し続ける家具。この小さな天板が彼らの学びの舞台となる。
 この机と椅子を卒業時に彼らに一台ずつプレゼントしようと思っているんですよ。そして、新入生のためにまた一台ずつ新造する。建物は永久的ですが家具は子どもたちと一緒に動いていく。学ぶ知識と何の関係があるのかと言われるかもしれませんが、私はそれも学びの環境だと思っています」
「素敵なお話ですね… 」
と、その時彼女は、校長が触れている椅子の背もたれに焼印が押してあるのに気づいた。『TSUBAKI』
「TSUBAKI? これって…」
「ああ、私の知人の家具職人の工房名です。家具職人といっても本業は山守でしてね。林業と兼業で家具を作っているんですよ。もう80過ぎになりますので、今は後継者育成の立場でおられるようですが」
「あの校長先生、偶然ですが私の実家はこちらの家具工房の近くなんです。その方もよく存じ上げています」
「おお!そうでしたか。それは偶然。いや、あの方ならむしろ納得いく話かもしれませんね」と言ってうなづき、彼女に向き直った校長は少し目を潤ませながら笑っていた。

取材を終え、会社に戻る電車の中で彼女は今日のことを振り返りながら、タブレットに取材メモを書き込んでいた。横では同行したカメラマンが、撮影したデータをクラウドにアップし終えて居眠りを始めている。その写真の中に写る校長とあの学童机を見ていると、胸の中が温かいもので満たされていくような感じがした。
「あれからぜんぜん連絡もなかったのに… なんでこんなところで出会うかなあ」
彼女はタブレットを鞄にしまい、窓の外を流れていく都会の景色に目をやった。そして、数日前に久しぶりにかかってきた母親からの電話を思い返していた。

「出版社の仕事が忙しいのはわかるけど、ちゃんと生活してるの?」
「してるよ、大丈夫だよ。学生時代から一人暮らしはしてるんだから、心配しないで」
「だったらたまに連絡くらいしなさい。お父さん寂しがってるわよ。先生になるって言って大学行ったのに、就職してそれから一度も帰って来ないなんて」
「一回帰ったでしょ、うん… まあ、わかりました。今度休みが取れたら帰るよ」
「きっとよ。あ、そうだ、あきらくんこっちに戻ってきたのよ。覚えてるでしょ椿本さんとこの章くん」
「え… なんで…?」
「去年の春だったかな、一度帰ってきておうちの人と話をしたみたい。それからすぐに仕事を辞めて戻ってきて、今はおじいちゃんに弟子入りみたいな感じで、林業と家具作りをしてる。
 ゆみはそっちであきらくんとは会ってなかったの?」
「会ってないよ。いや、一度だけ学生時代に会ったかな。偶然同じ電車に乗ってて向こうから声をかけてきて、降りる駅も一緒だったから、少しだけホームで話をした。お互いの近況報告しただけだったけど。なんか、雰囲気違ってたし緊張して、あまり話せなくて、それっきり」
「なんだそれだけか。大学進学の時、追いかけていくように見えたんだけどね」
「なによそれ、どっちが?」


第5章

「ただいまー… 」

玄関から入ってすぐに気づいた家の匂い。懐かしいというより、知らない匂い。
生まれ育った家がこんな匂いだったことを知らなかった。
ここで暮らしていたときには、薪ストーブが燃えている匂いやその日の夕飯が何であるかも、玄関に入った途端にわかったはずだった。しかし、それらに混ざっていたはずのこの匂いには気づいていなかった。
不思議だった。何度も繰り返してきた家の中に向かって「ただいま」と言うことに、かつての自分という誰かを演じているような違和感があり、発した声はなにもない空洞に吸い込まれていくような虚ろな響きだった。

「おかえりー」
家の奥から声が聞こえた。彼の母親の声だった。章は俯いて靴を脱ぎ、鞄を肩にかけ直して顔を上げると、もうその匂いはしなくなっていた。
玄関土間から上がって廊下沿いの扉は手前から居間、食堂、その奥が台所だった。廊下を挟んだ向かい側には個室が並んでいる。食堂の扉を開けると少し低めの大きなテーブルがあり、その上にはお茶の用意がしてあった。
「おかえりなさい」
台所から母親の香純が声をかけた。テーブルの脇に鞄を置いてこちらを振り向く息子を見ながら、お盆にお菓子を並べ、香純は食堂に向かった。
「じいちゃんは?」
「今日は講演会。最近よく行くのよ、あちこちから呼ばれてね。林業の話をしに行くの。技術講習会でも講師を頼まれたりして、伐期が終わっても忙しくしてる。
 夜には帰ってくるから、ほら、座ったら? お母さんとお茶しよ」
「うん」
湯冷ししたお湯を急須に移し、丁寧にお茶を淹れる香純の動作を章はなにも言わず見ていた。
「苺のコンポートを和三盆で作ったの。意外と煎茶に合うのよ、はい、どうぞ」
「ありがとう、いただきます」
手のひらくらいの皿に小さめの真っ赤な苺が三つ並んでいた。それを見ながら章は香純が淹れたお茶を一口飲んだ。口の中に広がる煎茶の甘味と旨味、鼻に抜ける新鮮な香りが濃厚だった。まだこんな味覚が自分にあったのかと章は少し驚いた。すかさず、苺のコンポートを口に入れてみる。生の苺より苺の味を感じ、煮詰めすぎずしっかりとした歯応えがあるところで仕上げてある。もう一度お茶を口に含む。「これ、無限にいけるな」章は自分の顔がほころんでいるのに可笑しくなって、お菓子に対する褒め言葉より、母親の凄さを讃えたくなった。
「で、どうしたの? 急に帰ってきて」
「あ、うん、じいちゃんと話がしたくなったんだ。
 子どもの頃、何度も聞いた山の話、森の話、木に関わる仕事について、もう一度あらためて聞いてみたいと思って…
 なんだか、色々聞いて自分がこれからどうするかを決めたいと思ったんだ」
「それは、章も林業をしたいってこと?」
「いや、それはまだわからないんだけど… とにかく今の自分の目でこの村を見てみたいというか、じいちゃんの目からこの世界はどう見えているのか知りたくて」
「ふふっ、お父さんみたいなこと言うようになった。親子だね」
香純は章の皿に苺がなくなるのを見届けて、急須にまたお湯を注いだ。
「父さんは今どうしてるの?部署が変わったって言ってたよね」
「そうなの。あれだけ熱心だったグリーンエネルギー推進室から異動願いを出して、今は林業課なんだって。
 森林管理とか環境保全とか、立場的には管理職なのにフィールドワークが多くて、毎日ヘトヘトになって帰ってくるよ。でも前よりいい顔してる。
 おじいちゃんには『役人がチェンソー持ってなにができる』って最初言われてたけど、おじいちゃんもね、なんだか嬉しそう」
「そうなんだ… 意外だね。父さんてなに考えてるかわからないな。あまり話したことないから」
章はまた自分の湯呑みに香純が淹れてくれた二煎目のお茶を一口飲んだ。さっきのお茶よりすっきりとした甘味で、隠れていた渋みも少し感じられた。
谷を見下ろす場所に建つ家ではあるが、山際であるため西向きの窓からの西日はわずかな時間しか差し込まない。夜への合図のように一時だけ室内を黄色く染めてはまた窓に吸い込まれるように光が消えていく。
「話してみたら? わりとおもしろい人だよ」

家の中の灯りがつき、台所で香純が夕飯の支度をし始めた。
章は自分の部屋に荷物を置きに行ったあと、外に出て庭先の展望台で二人を待つことにした。


彼の祖父がいつもそうしていたように、章はその場所から山と空を眺めていた。
夕暮れの、夜に向かって刻々と変わっていく空の色。風はなく、空全体が波のうねりのような音を発している。山の向こう、遠い街の騒音が、空の高みを往来する旅客機が、どこかで犬が吠えている、列車が線路を走る音と踏切の警報機、回転数を目一杯上げて走り去るオートバイ、救急車、この谷で誰かと誰かが話している声まで距離感なく、一度空へ舞い上がり、混ざり合ってまた降ってくるようだった。
「じいちゃんもこの音を聞いてたのかな」
耳をすまさないと聞こえないこの演奏と、祖父の場合は山仕事の騒音の後の耳鳴りが合わさって、荘厳盛大なオーケストラを聴いているようだろう。そんなことを考えながら、章はここに立つ祖父の姿を思い浮かべていた。

するとその音なかに、明らかにこちらに近づいてくる音があった。村のメインストリートである職人通りを抜け、この家に向かって坂道を登ってくる一台の電気自動車。彼の父親の車だった。その車は章が立っていた庭先をかすめて家の前に駐車した。それを目で追う章に向かって、車から降りてきた貴は手を振った。
「章、おかえり」
「ただいま、父さん」
こんなやりとりは初めてではないかと章は思った。彼が知る父親はいつも眠そうで、無口で、一緒に遊んだ記憶もほとんどない。また、村の誰かと話しているところもあまり見たことがなくいつも一人でいるイメージだった。そんな壁を今、たった一言の挨拶で軽々と越えてきて、そもそもそうだったように新たな関係が築かれてしまった。またそれをなんの抵抗もなく受け入れている自分がいた。
「久しぶりだな。たまに帰って来てたみたいだが、いつもタイミング悪くて会えなかったからな」
「いいよ、気にしてない。父さん、仕事変わったんだって?」
「ああ、お母さんに聞いたのか… そうなんだ。
 その話、また後でゆっくりしないか。お前の話も聞きたいしな」
「うん」
「とりあえず家に入ろう、じいさんは多分もう少し遅くなるよ。講演会の後、親睦会があるって言ってたから」
貴は振り返って灯りのついた家を見た。その向こうの山の頂の上に夕暮れの空、北の空はカーテンを引くように青紫が増していくところだった。家に向かって歩いていく、その斜め後ろに息子がいて、そんな景色の中にいることを彼は感じていた。
また章は前を歩く父親の背中を見ながら、ここに自分がいなかった時間を思った。
歩きながらふと庭を見ると、来たときには気づかなかったが、そこに3脚の折りたたみ式の椅子が向かい合って置いてあった。


「そのあと、三人で食事をしながら話をしたんだ。
 大学を卒業してから、就職して今に至るまでのこと。
 そして、あの時感じていた言葉にできない欲求について。
 当時、仕事に関してはなにも不満とかはなかったけど、いつも何かに苛立っているというか、満たされない気持ちが常にあって、それが何なのか自分でもわからないまま毎日がただ過ぎていって。少しでも不安に駆られるような時は仕事のことを考えていれば忘れられる、その便利なスイッチを見つけてからは感情の振り幅さえも小さくなっていった。
続けようと思えば続けられたはず。だけどなぜこの村に帰ろうと思ったのか、じいちゃんに会いたくなったのか、そのきっかけをくれた友達の言葉も話した」
「そっか… その話を聞いて、ご両親はなんて?」
「それが、全部受け入れてくれたんだ。目的も意味も求めない、帰ってくればいいただここにいていいって、当たり前じゃないかって。
 そして俺が進みたい道が見つかったら教えてくれって」
「それって家族だよね… 社会に出たら目的性のないことは許されないもの。自分に対しても常に意味を問い続けてる」
「あ、こんな話じゃなかったよね。林業の取材だったっけ」
「ううん、いいの。章くんのことも聞きたかったから。なんで会社を辞めてまでこの村に戻ったんだろうって思ってた。
 よかったらもう少し聞かせてもらっていい?」
「わかった…
 俺が林業をやろうって思った理由は、多分一般的に期待される話ではないと思う。別に木が好きとかではなくて、環境にも特に興味はなくて、木材利用とか産業や経済に関心があるわけでもなく、未来に対する問題意識や希望を感じてるわけでもないんだ。ただ衝動的に、ここでの暮らし方に魅力を感じてしまっただけなんだ」
「それは一度都会に出て、生まれ育った環境を再評価したってことなのかな」
「そうかもしれないけど、それだけじゃないと思う。
 都会にいても生活はできる。だけど、人が生きるってことは生活だけでは満足いかなくて暮らし方も充実させたくなってくるよね。そしてもっと自分と向き合えば生き方も考えるようになる。生活と暮らし方と生き方と、どれかを選ばなければいけないのじゃなくて、誰かが言ってたんだけどそれは振り子のようなものだと。誰でもその振り子は持っていて、境目はなく常に行ったり来たりしてるものだって。人によってどちらかに偏ることはあるんだろうけど、俺の場合は都会での暮らしは生き方にまで振り切ることはなかった。
 振り幅が大きい方がいいのかはわからないけど、俺はちゃんとそこまで振り切る生き方をしたいと思った。俺のじいちゃんは多分そういう人だと思ったんだ」
「それが、帰ろうと思った動機だったんだね… なんだか自分に重ねて聞いちゃった。ちょっと耳が痛いな…
 それで、ここでの暮らしはそれを満たしてくれた?」
「まだまだだとは思うけど、間違ってなかったと思う。
 あの日、食事の後に父さんが外で焚き火をしながらじいちゃんを待とうって言って、二人で庭で焚き火をしたんだ。その時父さんが母さんの前では言わなかったことを話してくれて、なぜ行政として林業に関わろうと思ったのか、立場的には事務仕事だけでいいのにフィールドワークにこだわるのかとか。その理由は結局、俺と同じだったんだ」
「お父さんとそんな話ができてよかったね。なんだか羨ましいよ。それぞれの道なのにまた木に関わる仕事を選択するなんて、やっぱり運命的なものなのかな」
「確かに、木も山も重要なピースではあったよ。ここでの暮らしには当たり前のように木が絡んでいて、人をつなぐ役割も担っていて、じいちゃんの生き方そのものだから。自分もここで暮らすということは木と関わることだと覚悟してたしね。
 焚き火のときにじいちゃんが帰ってきて、三人で焚き火を囲みながら俺の思いをじいちゃんに伝えたんだけど、答えは『いいんじゃないか』だけで、あとはずっと木の話だったからね。戻ってきたらあれやってこれやって、その中から自分に一番合うものを主にしなさいってね。もう戻る前提の話で… 」
「まさに相続だね。継承だとその通り引き継がないとだめだけど、もらったものをどうするかは自分で決めなさい、か。
 それで、章くんが一番に選んだものは何だったの?」
「もちろん林業はそうなんだけど、家具を作るのもおもしろい。木が最終的に人の暮らしの中に入っていくところを見るのは…
 裕美ちゃんが見た学校の机と椅子は、じいちゃんに教わりながら作った最初の仕事だった。
 だけどそれもやっぱり振り子のように境目なくつながっているからいいんだと思う」
「あれを見たからこうして取材することになって、また会えたんだもんね。仕事や暮らしをそんなふうに考えたことなかったな。
 章くんの言うことが、少しわかってきた気がする。共感する人は多いと思うよ」
「取材を受けながらこんなことを言うのもわるいんだけど、俺はこの村の暮らしを誰かに伝えたいとは思ってないんだ。多分、この村の暮らしを説明する言葉は世の中にたくさんあると思う。でも言葉を当てはめたり、名前をつけたりするとたくさんの人に伝わるかもしれないけど、本質が伝わらずに終わってしまう気がする。人はそれぞれでいいんだと思う。自分でそんな場所を見つければいいんだと思う」
「言葉にしたくない、か。私にとっては辛い言葉だな… 」
「ごめんね、大袈裟かもしれないけど、それが俺の生き方なのかもしれない」
「生き方か… 私も戻ってこようかな。小学校の先生、もう一度受けてみようかな」
「それはいいと思う。大歓迎だよ、ずっとそばにいてよ」
「え?
 なにそのずっと持ち歩いてるの? その腰の斧は」
「あ、これ? これは鉄屋の浩さんが『山守の魂だ、持ってけ!』って作ってくれたやつ。かっこいいだろ」
「ふふっ、かっこいいね」


轟々と篝火が風に煽られて燃え上がる。
火の粉の混じった煙が渦を巻きながら横に流れていく。
百年杉の梢が大きくしなやかに、それぞれのリズムで揺れているその上には、あの弓張月が静かにとどまっていた。
よく見ると幹もゆっくりと揺れていて、炎に照らされ暗闇から浮かび上がる空間そのものが、揺らいでいるかのように錯覚する。
円陣を作る男たちの装束がはためく音、薪のはぜる音は連続し、それに負けじと風に流されまいと男たちは謡の声を張り上げる。
その声に呼応し、円陣の中で舞うシテの動きも大きく激しくなっていく。
さらにその舞に合わせて、謡の声も増していくようだった。
やがて物語は終盤を迎え、動きは次第に緩やかになり、シテはゆっくりと円陣の外に出て男たちに背を向けた。
腕を広げ静止した後ろ姿は、まだ呼吸に合わせてわずかに肩が上下している。
謡の声もやがて地頭一人になり、その最後の一音が風に消えていくまで、シテの男は木々に向かい山の頂の方向を見上げていた。

この村の山守たちが執り行う伐採期最後の神事にも、代替わりの時期が訪れていた。
この風のせいもあり、前年までの幽玄な神事とはまた趣を異にするものではあったが、円陣の外から見守る老人たちの目には、吟味するというより次の世代への羨望すら感じられた。

そして彼は森に向かい、ゆっくりとその闇の中に消えていった。


森が見た夢:完



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