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映画のこと(その2)

んー、なんだかiMacのモニタで映画を見るのって気が乗らないなぁ。
かつてのペーパーカップに入ったコーヒーを飲みながら、ブザーの音と共にどんちょうが上がっていく劇場が懐かしい。
いや、かつては年間に百本以上の映画をスクリーンで見ていた時期があって、どうしてもその頃のことを思い出してしまう。
例えば空調のせいで、スクリーンに映る景色が陽炎のように揺れたりしても、お菓子の匂いが漂ってきたりしても、あるいはケータイのフラッシュを、呼び出し音を忌々しく感じたりしながらでも、劇場で映画を見ると言う行為はやはり楽しかった。
最後に劇場で映画を観たのは、エドワードヤンの「牯嶺街少年殺人事件」が最後だった。
もう一体どれだけ映画を観てないんだ?

ま、そんなことどーでもいーや。

前回、自分の書く映画の感想は一般的なものではないよと書いたのだが、その感想はいつも劇場で映画を観た帰りに走らせる車の中で、あーでもない、こーでもない、そーいえばあの時に似てるなぁと思っていたことで、ほぼ独り言に近い感想だった。
で今、映画を観たとして、そんなちょと手書きっぽい感想が書けるだろうかと考えてみると、それはむずかしいんではないかと思うのだ。
まず映画を見る環境が全然違っていて、劇場で映画を見るということは、完全に映画に集中せざるを得ない環境の中で(多少の妨害は入るにしても)見て、(問題はここ)映画を観終わった後に、一人で映画だけを思い出すような環境がないことなのだ。
iMacで映画を観終わる。
部屋の電気をつける。
すると、そこは突然自分の部屋なのだ。
読みかけの本が伏せられていたり、食べたチョコレートのかけらが机の上に落ちていたり、あっというまに日常があるのだ。
劇場で映画を見るのは大体レイトショーだったので、映画を観終わった後は、一人で車を運転して1時間ほどかけて自宅へ戻る(ウヒャ、往復で映画一本分の時間なんだな)、その1時間の間に目にするものは、明るく照らされた街の様子や、ライトに照らされるだけの道路(Dリンチのロスト・ハイウェイのポスターを思いだす)。
そんな中では、頭の中は見てきた映画のことを無秩序に考えている。
ほらね、いきなりチョコレートのかけらが見える世界とは全然違うでしょ。
うーん、iMacで見る映画の感想をうまく書けるのか不安になってきた。

え?そんなこたぁいいから、さっさと映画見ろよ、ですか。
…そのとおりですね。
はい

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