見出し画像

アントニオ猪木 ”燃える闘魂”は永遠に

2022年10月1日。
”燃える闘魂” アントニオ猪木 逝去。
師匠の力道山はじめ、数多くのライバル、そして悔しくも先立ってしまった後輩たちの待つリングへ旅立った。

難病を発症してから、長い闘いだったと思う。
最後の闘魂を燃やして戦ったが、病に打ち勝つことは叶わなかった。

アントニオ猪木とは、日本プロレス界を作り上げた英雄の一人。
そしてプロレスの垣根を越え、誰もが知る存在。

多くの人の前に立ち、「元気ですか!」と笑顔で叫ぶ。
そして猪木さんの音頭の元、その場にいる皆で元気に拳を振り上げる。
私も、生で何度も体験した。
1、2、3、と叫び、ダーッと拳を高く突き上げる。
これがなんとも言えぬ気持ちよさ。そして皆、自然と笑顔になっている。
猪木さんは、日本国民を笑顔にする存在だった。

猪木さんの闘魂を称え、今の想いを語ってみようと思う。

私のプロレスルーツ

金曜日、20時からの「ワールドプロレスリング」。
私が幼少期にテレビ朝日で放送され、当時のプロレス人気をけん引する番組。猪木、藤波、長州らが画面狭しと暴れまわる。

しかし、私のプロレスルーツは「ジャイアント馬場」だった。

幼少の頃、地元のパチンコ屋の駐車場に全日本プロレスの興行がやってきた。
父に連れられて見に行った時、その大きな体に驚いた。
それから、全日本プロレス中継を見るようになった。
土曜日の夕方だったと記憶している。

夢中になったのは、ジャンボ鶴田やザ・グレート・カブキ。
鶴龍コンビとザ・ファンクスの闘いが全盛期だったころ。
その頃はキン肉マンのアニメも放送していて、プロレスがファンだけのものではなく、お茶の間の一部になっていたと思う。

しばらく夢中で見ていたが、ある時から見るのをやめてしまった。
理由は覚えていないが。

その後の全日は、天龍をはじめ多くの選手が流出し、後に全日を背負う四天王が力をつけることになる。
ギリギリ、2代目タイガーマスクのデビューは見た記憶がある。
後の三沢光晴だ。

私の中でプロレス熱が再燃するのは、それからずっと後のこと。
大学生の頃、プロレス好きの友人に誘われて、武道館へ新日本プロレスを見に行った。
ベストオブ・スーパージュニアの決勝戦だったと記憶している。
確か、優勝したのはエル・サムライ。

幼少期に見て以来、10数年振りに生で観るプロレスに、何故かすっかり魅了されてしまった。
当時新日と提携していたWCWから輸入された、nWo軍がカッコよかった。
見に行ったその日に、蝶野正洋という男に魅了されてしまったのかもしれない。
その後、黒いnWoTシャツも買った。
今だに持ってて、ヨレヨレだけど。

それから、90年代のプロレスを注目しつつ、今まで見てこなかった80年代の熱狂の時代についても掘り下げて振り返った。

プロレスに詳しくない方に説明すると、力道山が興した「日本プロレス」に、馬場さんと猪木さんが弟子として入門する。
馬場さんは元巨人軍の投手。猪木さんは移民先のブラジルから力道山が連れ戻した。

力道山が若くして亡くなった後、猪木さんが新日本プロレス、馬場さんが全日本プロレスをそれぞれ旗揚げした。
ケンカ別れ、というわけでもないが、当時のタブーを打ち破って日本プロレスを飛び出して団体を立ち上げた猪木さんに対し、日本プロレスの流れで全日本プロレスを立ち上げた馬場さん。
この2団体が相まみえる事こそ、当時はタブーとされていた。

全日にはジャンボ鶴田、天龍源一郎、そして馬場さんが持つアメリカのプロレス界との強いパイプで連れてきた外国人レスラーたちが活躍した。
スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディ。
あのメロディを聞くと「笑う犬」を思い出す人も多いと思うが、ドリー・ファンク・Jrとテリー・ファンク兄弟のザ・ファンクス。
大仁田厚も全日本出身だ。

対する新日は、藤波辰爾と長州力の「名勝負数え歌」。
初代タイガーマスクのセンセーショナルなムーヴ。
そして、新間寿さんという名プロモーターが作り出す、正に「戦いのワンダーランド」。
猪木や藤波の立つリングに、いきなり謎の海賊男が襲い掛かってきたり、悪徳プロモーター「KYワカマツ」とストロング・マシン軍団が攻めてきたり、
たけし軍団が最強の敵、ビッグバン・ベイダーを送り込んできたり…。

時代と共に、プロレス界もどんどん姿を変えてゆく。
長州力がアニマル浜口ら仲間と共に「ジャパンプロレス」を立ち上げ、全日本に殴り込んだ。
その頃、長州に憧れてジャパンプロレスに入門した佐々木健介もデビューしている。

新日でも、前田日明が「UWF」を結成。
新日を後にし、自らの興行を打つ傍ら、新日とも長く激しい抗争を繰り広げた。
高田延彦が頭角を現し、藤原喜明や山崎一夫が脚光を浴びた。

激動の時代の中、全日には三沢、川田、小橋、田上の「四天王」が君臨し、新日も武藤、蝶野、橋本の「闘魂三銃士」が台頭してゆく。
2団体とも、若手にプロレス界を託したのだった。

馬場さんのモットーは、「明るく、楽しく、激しいプロレス」。
しかし猪木さんは、「プロレスこそ最強」を掲げ、ストロングスタイルを磨き、継承してゆく。
スタイルの違いにファンも二分したが、その後2000年代に向けて格闘技ブームが起き、新日はそちらへ舵を切ってゆく。

そんな中、猪木さんは1998年にひとつの節目を迎えた。

アントニオ猪木 引退試合

1998年4月4日。東京ドーム。
正に私がプロレスに夢中になっていた最中の出来事。
同じ年の1月4日、つまり「イッテンヨン」で長州力が引退。
(引退と言いつつ、その後もリングには上がった)
その日に猪木さんもリングに上がり、自身の引退試合を発表したのだった。

当時大学生だった私は、東京ドームで会場整理のアルバイトをしていたので、運よく、長州の引退試合も、猪木さんの引退試合も現地で見る事が出来た。

当時テレビ朝日で放送された、ゴールデンタイムの2時間スペシャル。
それをビデオに録画して保存しているのを思い出した。
猪木さんの訃報に際し、改めて観てみる事にした。
我が家には数多くのビデオテープがまだ残っているので、ちゃんとデッキも保存してあるのだ。

少々アナログだが、テレビの画面をスマホで撮影。
ビデオなので画質が荒いです。

内容は、再現ドラマを用いた猪木さんの生い立ちや、引退試合までのドキュメンタリー。
そして、試合当日の様子。
試合に臨む猪木さんの表情だけでなく、引退試合の実況を担当することになった古舘伊知郎さんの目線からも描かれる。

古舘さんは元テレビ朝日のアナウンサー。
新日本プロレス中継「ワールドプロレスリング」の熱狂的な人気を作り上げた立役者の一人。
「戦いのワンダーランド」「燃える闘魂」など数々の言葉を生み出した。
その後フリーになり、90年代はF1中継でテレビ界を席巻。
ここでも、「音速の貴公子」や「青山一丁目の伝説」といった言葉を生み出す。
その後長く報道ステーションの司会を務めたが、最近は様々なメディアで自身の経験を語っている。

猪木さんの引退試合の相手はトーナメントで決する。
決勝に残ったのは、猪木さんの愛弟子である、柔道の元オリンピックメダリスト 小川直也と、総合格闘技「アルティメット・チャンピオンシップ」のチャンピオン経験者、ドン・フライ。

オープンフィンガーグローブ(*1)を付ければパンチによる打撃も可能な格闘技ルール。
打撃とグラップリングを巧みに使い、勝ち上がったドン・フライ。
しかし、グローブに細工があるのではないか?と疑惑の目も向けられていた。

(*1):ボクシングのグローブとは違い、つかみ合いもできるように指を出して動かすことができるグローブ。佐山聡が格闘技界に広めた。

対する小川直也は、当時まだ実用化されたばかりのカラー柔道着を着て花道に登場。
猪木の死に水を取ることが愛弟子の務め。
会場全体の空気が小川を後押しする。

決勝は異様な空気に包まれたが、STOでフライを倒し、優勢だった小川にフライのパンチ一閃。
失神同然の小川へ無念のタオルが投げ込まれ、猪木の相手はドン・フライとなった。

誰もが予想しえなかった展開。
あの時、ドン・フライは完全なヒールだった。
今考えると、小川のデビューからフライの来日、新日リングでの暴れっぷり。
そのひとつひとつが、この日のストーリーを作り出す要素だったのかもしれない。

迎えたメイン・イベント。
アントニオ猪木vsドン・フライ。

先にフライが花道に登場。ふてぶてしい顔でリングに上がる。

そして、外野に設置されたステージにひとりの男が立った。
1976年、猪木さんと異種格闘技戦を繰り広げた、元ボクシング世界チャンピオン、モハメド・アリ。

番組では、この1戦についても詳しく触れられた。
世界の格闘技界が驚く1戦だったからだ。
ボクシングとプロレスの異種格闘技戦。

世紀の死闘か?と思われた1戦だったが、アリ側の条件提示で状況は一変。
グラップリングなど、レスリングに有利な技がルールで封じられてしまった。
それでも、プロレス最強を掲げるアントニオ猪木。
不利な状況にもかかわらずアリに立ち向かう。

いざゴングが鳴って見ると、人々の目に奇妙な姿が映った。
猪木がほとんどの時間リングに寝そべり、アリの足を集中的に狙って蹴ってゆく。
グラップリングが封じられた猪木の苦肉の策だった。

試合は15ラウンドフルで戦ってドロー。
ブーイングが起きるほどの”凡戦”だったが、この戦いでアリは足を負傷。
猪木さんの強さ、クレバーさが際立つ試合だったのだ。

闘い終わった両者の間には友情が芽生え、アリが亡くなるまでその関係性は続いた。
猪木の入場テーマ「炎のファイター」は、アリが自身のテーマ曲を猪木に送ったものだ。
「アリ!ボンバイエ!」が「イノキ!ボンバイエ!」に変わったのだった。

※ボンバイエとは、「あいつをやっちまえ!」の意味

アリはこの日の前年に開催されたアトランタ五輪の最後の聖火ランナーとして登場。
当時アリはパーキンソン病を患っており、震える手でゆっくりと聖火を持ち上げ、聖火台に火をともす姿が感動を呼んだ。
その時の再現なのだろうか、この日も何故かステージ上でトーチに火をともすアリ。

ゲストとして呼ばれたモハメド・アリ

その後、ケロちゃんこと田中リングアナの呼び込みを受け、高らかに鳴り始める炎のファイター。
会場全体が叫ぶ「イノキ!ボンバイエ!!」
会場はまさに興奮のるつぼ!

当時の会場は、東京ドームの入場者数ギリギリまで観客を入れた。
外野席はもちろん、1階席上段の立ち見客までいた。
その観客全員が熱狂で猪木を迎える。

白いガウンに裾の赤いタオル。
背中には黄金に輝く「闘魂」の文字。
観客の熱狂を受け、ステージに猪木が登場!
両手を広げてポーズをとると、両側にゆらりとたいまつの炎が舞う花道を、まっすぐ、ゆっくりと走り出した。

背中に輝く「闘魂」の文字

リングに上がり、ドン・フライと対峙する。
フライがコールされると、会場からはブーイングが。

そして、猪木の名前がコールされる。
「アントニオー、猪ー木ー!!」
割れんばかりの大声援を受け、ガウンの紐を解いて両手を広げる。

これぞ、猪木の雄姿!

試合は、猪木の「巧さ」がよく出た試合となった。
フライの打撃をまともに一撃も食らわない。
「動」のフライに対し、「静」の猪木。
巧妙に自分のペースに持ち込んでゆく。

そして、両者立ち上がったところで、猪木の代名詞「延髄切り」が炸裂!
よろけたフライをコブラツイストで仕留めにかかる。
その姿勢のまま、フライをグランドに倒しにかかった。
グランド・コブラ。その時初めて見た技!
フライはそのままギブアップ。最後の試合を危なげなく制したのだった。

猪木の延髄切りが炸裂!
(ビデオなので、画質が荒いです)
伝家の宝刀、コブラツイスト!
グランドコブラ。
ドン・フライは苦悶の表情でギブアップ。

試合の後は引退セレモニー。
何故かトーチに火を灯したアリがリングに駆け付け、花束を贈る。
病気で顔が強張っていたアリにも笑顔がこぼれた。

アリも笑顔で寄り添う

そして、20代だった私の心に響く言葉を猪木さんは残す。

人は、歩みを止めた時に、そして、挑戦を諦めた時に、年老いていくのだと思います。

この道を行けば、どうなるものか?
危ぶむなかれ。危ぶめば、道はなし。
踏み出せば、その一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ!

「ありがとう!!」の絶叫と共に、10カウントのゴングが鳴らされる。
そして、ステージにはコロッセオのイメージ画が掲げられた。
それに向かって歩き出してゆく猪木さん。

ステージに着くと、再び炎のファイターが流れ出した。
アントニオ猪木、現役最後の姿。
会場中のファンはさらに興奮し、もう待ちきれない。

「いくぞー!1、2、3、ダーッ!」

アルバイト中の私は当然一緒にやることができなかったが、それがもどかしいほど、会場は興奮に満ちていた。
後でテレビを見た時も、そしてビデオを見返した時も当然ダーッ!と拳を突き上げた。

引退試合の相手を勤め上げたドン・フライの名誉のために書いておくが、彼はその後、日本の格闘技界で大人気となった。
2000年代は一世を風靡した「PRIDE」に参戦。
プロレスラーの高山善廣との死闘、お互い首根っこを掴んで殴り合う熱いファイトに、当時の誰もが熱狂した。

リングを降りても、新日のリングで見せたようなラフな真似はしない。
彼はあえてヒールを演じていたのだ。
私には、とてもいい人に映った。

※Numberの記事より。
2002年に行われた、PRIDE21の試合の後日談。
フライさんは引退後、生死の境をさまよう程の状態だったそう。
高山さんはプロレスの試合中に負傷し、肩から下が動かない状態。
現在もリハビリを続けている。

引退後の猪木さん

当時55歳で引退した猪木さん。
今見ても、とても還暦前とは思えない体と動きに驚いた。
元々体が柔らかいことと、何十年というキャリアで培ってきた体のなせる業だったのだろう。

引退後の猪木さんは、現役時代と同様に精力的に活動。
新日を離れ、自身の格闘技団体である世界格闘技連盟「UFO」をプロデュース。
その後、PRIDEのエグゼクティブプロデューサーも務めた。
会場に見に来ていた、元プロ野球選手の清原さんを呼びつけ、闘魂ビンタを見舞ったことも。

そう、猪木さんの代名詞「闘魂ビンタ」。
時にはビンタを受けるために長い列ができたほど。
その一人一人に闘魂を注入する猪木さん。
受けた人は、ものすごく痛いにも関わらず、やはり笑顔になっていた。
私も闘魂注入してほしかったが、それが叶う事はなかった。

猪木さんは子供の頃にブラジルに移民した経験から、ブラジルの文化や物産を日本に持ち込んだことでも有名。
あの「タバスコ」を日本に広めたのも猪木さん。(日本に持ち込まれたのはもっと前らしい)
あと、10年ほど前に流行ったマテ茶を、それよりもっと前に「アントンマテ茶」として販売していた。

数々の事業や政界進出など、正に波乱の人生だった。
猪木さんに関する著書は数多く出ているので、興味のある方は是非読んでみてほしいし、今後も関係者から様々な著書やエピソードが出てくると思う。

2019年頃より、「心アミロイドーシス」という難病に罹患し、入退院を繰り返していた猪木さん。
NHKのドキュメンタリーも見たが、日々弱ってゆく猪木さんの姿にショックを受けた。
「元気ですか!」と叫び、皆を笑顔にさせてくれた猪木さんの弱ってゆく姿は、正直見たくなかった。
ただ、「最後の闘魂」を燃やし、病気と闘う姿を同じ悩みを持つ人へ見せること、そして自身の最後の姿を残しておきたかったのかもしれない。

そして今日、10月1日。
アントニオ猪木、逝去。

長く苦しい闘いだったと思うので、今の気持ちは長州さんのツイートと同じ。ようやく楽になりましたね、という心境。
これでずいぶん前に旅立った馬場さんとも再会できるし、当時しのぎを削った仲間とも酒を酌み交わせるはず。
愛弟子である橋本真也が真っ先に迎えに行っているかもしれない。

※長州力さんのツイートより。

アントニオ猪木さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
「燃える闘魂」は、これからも多くの人の心に燃え続けます。
本当にありがとうございました。

※タイトル画像及び記事の画像は、テレビ朝日で1998年に放送された「さらば闘魂・・・アントニオ猪木 引退試合」のテレビ画面をスマホで撮影、使用させていただきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?