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「表現の不自由展 その後」作り手と見る側の平行線

2019年8月3日、愛知県で開催されている「あいちトリエンナーレ2019」の展示企画のひとつであった、「表現の不自由展 その後」の展示中止が発表されました。
理由は、その展示内容。韓国の従軍慰安婦を示唆する像の展示や、昭和天皇を示唆する肖像を燃やす映像作品などが展示され、主催者側に抗議の電話が殺到。会場を燃やすと脅迫するFAXまで届く騒ぎとなり、主催者側は展示の中止を決定したのでした。
それから1週間。FAX脅迫犯は逮捕され、「言論の自由を奪うな!」「展示中止の見直しを!」といった声や、中止を決めた主催者側の運営に対する批判の声が上がっています。

私が騒ぎを知ったのは、芸術監督の津田大介氏が展示を中止する会見のニュースを見てでした。どういうことか?とよく調べてみると、「反日感情を助長する」だの「国際的な芸術祭で反日展示をするなんて言語道断」だの「国の助成金を使って反日プロパガンダ作品を展示した津田を許すな」など、一様に津田氏を責め立てるツイートが目につきました。

津田氏を責め立てる事に興味はないのですが、誰が芸術監督だろうが、何の考えもなくいきなり反日感情むき出しな展示物を出す訳がありません。イベントの趣旨や展示物の意図を調べてみると、だんだん事情がわかってきました。

今回の一件は、事実として「不快」という感情だけでネガティブな要素を叩いた結果、芸術家が作品を世に送り出す原動力となる「表現の自由」を完全に奪い去った、悪しき例になってしまいました。
ただ、抗議の電話やらTwitterやらで声を荒げた方々の多くは、展示された芸術作品に単純でも複雑でも「不快」に感じてしまった。
お互いの主張の「落としどころ」は、一体どこにあるのでしょうか。ネット上に上がった情報をまとめて考えてみます。

「 表現の不自由展 その後」とは

この企画展の趣旨は、オフィシャルサイトに記載されています。

過去に組織的検閲や忖度により展示できなかった作品を、その理由と共に展示するのが企画の趣旨でした。2015年にとあるギャラリーで開催されたものを、今回は展示作品も増やし、この芸術祭で再度企画されたようです。
一見タブー視されがちな作品たち。恐らく、今回のように非難を浴びた作品も多数あった筈です。それを敢えてこのような大きな芸術祭に出展するとは、企画としてはかなり挑戦的です。何故、このような企画を立ち上げたのでしょう?

それは、「表現の自由」への挑戦であったと思います。現実的に、なんらかの形で人の目に触れることのなかった作品たちにスポットを当てると共に、「表現の自由」とは何か、「芸術作品」とは何かを、世の中に問う企画だったのではないでしょうか。

「遠近を抱えて」と「焼かれるべき絵」

「表現の不自由展 その後」の展示作品の詳細は、こちらもオフィシャルサイトで見ることができます。

中でも、物議を醸した作品のひとつは、昭和天皇を象徴する絵を焼く映像でしょう。一見すると、日本の象徴である天皇陛下の肖像を燃やすなど、日本の中ではあってはならないこと。「反日活動の象徴」に繋がります。芸術作品であっても、そんなこと許されるのでしょうか?

作品の名前は「焼かれるべき絵」。島田美子氏の作品です。実はこの作品、もうひとつの作品と密接な関係があります。それが、大浦信行氏の「遠近を抱えて」。

二つの作品の関係性のついては、この記事に詳細に書かれています。

「遠近を抱えて」が富山県近代美術館に展示された際、県議会議員からの圧力により展示が中止され、勝手に売却。図録も販売中止となり、燃やされてしまいました。
その議員が右翼の活動家だったのか、ただただ不快に思っただけなのかはわかりませんが、かなり暴力的な行為です。
コラージュされた芸術作品の図録であっても、昭和天皇の肖像を「燃やした」事実に変わりはない。もうひとつの作品「焼かれるべき絵」は、こうした背景から生まれた作品だったのです。

つまりは、検閲と言う名の暴力的な行為によって、作品から「表現の自由」が奪われた。そのことに抗議する意味を込めて別の作品が生まれた。
しかし、今回もまた「表現の自由」は奪われてしまったのです。

私も前衛な芸術に明るくないので、何故昭和天皇の肖像をコラージュする必要があったのかはわかりません。昭和天皇は昭和という歴史の中で、「国の元首」から「国の象徴」になりました。その為、「軍事国家」や「戦争」を連想させる側面があることも事実です。意図があるにせよ、芸術作品に用いること自体が「不快」と感じる方も少なくないでしょう。
しかし、作品には必ず「メッセージ」があるもの。「不快」という気持ちだけでそのメッセージを感じ取る機会を失うのは、勿体無い気もします。

「平和の少女像」

もうひとつ、物議を醸した展示作品が「平和の少女像」。これが正式な名前です。「慰安婦像」と言う名前ではないのです。作者はキム・ソギョン氏、キム・ウンソン氏。
公式サイトにも作品のガイドがあります。

日本国内での「平和の少女像」のイメージは、韓国の民間団体が日本大使館前に設置した事件と重なり、明らかに「反日の象徴」だと思います。しかしこの像は、従軍慰安婦の被害に遭った方々の苦しみと、その後の苦悩との闘いを決して忘れぬようにと作られた「平和の碑」でもあるのです。
平和を祈念する芸術作品であれば、このような大きなイベントに展示されるべき作品である筈ですが、やはり日本では前述の通り、「反日」のイメージが強い。

しかも、いかんせんタイミングが悪かった。「平和の少女像」が今回の芸術祭にいつ展示されることが決まったのかはわかりませんが、日本政府が韓国に対して、輸出管理優遇措置(ホワイト国)の除外を発表した直後に、あいちトリエンナーレ2019が開幕したからです。
そんな中で「反日」イメージの象徴である像を展示することは、「反日プロパガンダ作品を展示して国を挑発している」と取られても仕方ありません。この作品も過去にミニチュアが公開されたにもかかわらず、作家が知らないまま撤去されたことがあったそうなので、今回の企画の趣旨に合致したものになりますが、会場に見に来る人のことを考えると、配慮が必要だったのではないかと思います。

ただ、私は今回の騒動で「平和の少女像」がどのような像なのか、という事は学べました。お隣の国なんだから、もっと仲良くできないものか、と思うのですが・・・。

結局は「平行線」のまま

騒動から1週間が経って、この話題も大分落ち着きました。津田氏が出席予定だった神戸のシンポジウムは中止になったようですが、確かに津田氏が参加したら、あいちトリエンナーレの話題で持ちきりになるでしょうから、主催者は賢明な判断だったと思います。

今回の騒動で問題になったのは、「表現の自由」を民衆の声で抑えつけてしまったこと。表現者サイドは、表現の場所を奪われてしまったのですから、もちろん異を唱えます。しかし、作品の中に見る者を不快にさせるものがあったら、見る側も黙っていません。

芸術作品とは、作り手が込めたメッセージをそのまま受け取れればいいのですが、見る側が何とでも解釈できてしまう要素があるので、非常に難しい。ただ、そういった「答えがないもの」が芸術の魅力だったりするのですが、今回のような無用な争いが起きてしまうのも事実です。

結局、議論は平行線をたどることになってしまうと思うのです。

恐らく、「表現の不自由展 その後」があいちトリエンナーレ2019の開催中に再び開かれることはないでしょう。しかし、何かの機会に、ひっそりとでもいいので、同じ趣旨の展示会が開かれることを願っています。その時は作り手も見る側も平和的に議論できたらうれしいですね。

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