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トマトトマト、上から読んでも下から読んでも、トマトミニトマト

 トマトが逆から読んでもトマトとなるのは、子音と母音をセットで扱っているからだ。厳密に回文にするなら、オタモット(otamot)という未知の単語が出来上がることになる。

 「たぶんぶた」という回文をはじめて聞いたとき、「ん」が一つ足らないのではないかと思った。「たぶんんぶた」としないと対称にはならない。「ん」というのが、真ん中というか兼任というか、中心にあるというのがすぐに理解できなかった。「トマト」はすぐ納得できたのに、「たぶんぶた」だけは腑に落ちなかったのである。これはおそらく、「ん」が少々特殊だからであろう。

 日本語はモーラという単位で言語音を捉える。上述の子音と母音のセットがそれで、だいたい仮名一文字に相当する。一方、音節というセットもあって、英語のような言語は音節で言葉を区切る。モーラと音節はかぶることも多く、トマトは三モーラであり三音節である。

 日本語のモーラと音節の違いは、前者は「ん」や「っ」、「ー」(長音)を一人前の単位と捉えるのに対し、後者はそれらを半人前、すなわち音節の一部として見なすことである。なので、「ペン」は二モーラであるが一音節である。非日本語母語話者が「オバサン」と「オバーサン」の区別に苦労するのは、「ー」を独立したものと認識しづらいからだ。

 ともかく、幼い時分の私には、「たぶん」の「ん」が独立しているというよりは、「ぶ」の付属品(あえて文字化すれば「ぶn」)のように感じられたのだ。「た.ぶn.ぶ.た」の四つの単位で構成されると思ったために、「ん(あるいは n)」が一つ少ないと直感した。もし仮にこれが、「た.ぶn.nぶ.た」なら問題ない。ちなみに「nぶ(より正確には mb)」のような発音は専門的に前鼻音といい、古代の日本語の破裂音はこの発音だったと考えられている。その名残が東北方言などに見られる。

 この出来事は、モーラを基本単位とする日本語母語話者にとっても、幼少期はそれよりもまず音節を先に習得するということの証左かもしれない。もしくは、「ん」が独立したモーラであると学んだり、ある文が回文であると解するのは、文字を習得したあとなのだろうか。

 「イルカは軽い」も回文である。「この反対は?」と尋ねられたとき、周りの友達は皆「イルカは重い」と答えていた。しかし、私の考えは違った。「イルカは重くない」である。なぜ「重くない」なのかを説明できるだけの力量ちからが当時の私には残念ながらなく、これをわざわざ声を大にして主張することもなかった。

 要するにこれは、「ゼロ」を暗に認めていたということである。「ない」が否定であるならば、何もつかないこと、すなわち「ゼロ」が肯定を表しているはずだ、こう直感していたのだ。そのため、「軽い」の反対は「重い」、肯定「ゼロ」の反対は否定「ない」となり、それらを合わせると「重くない」となるという勘定である。しかし、出来上がった「重くない」は意味としては「軽い」と同じであり、そのことが私を混乱させた。二回ひっくり返したのだから表に戻るのは当たり前である。

 このように、子供の言語感覚は意外と鋭いものがあるので馬鹿にできない。母語を手に入れるのと同時に、このような「直感」を失っているのかもしれない。

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