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〈栗の木カフェ〉
栗の木カフェは、『一九八四年』に登場する場所である。
一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫) | ジョージ オーウェル, トマス ピンチョン, 高橋 和久 |本 | 通販 | Amazon
歴史は書き換えられるもの。2+2=5にもなる。一九八四年は党に対する反駁の念を抱いただけでも罪となる(思考犯罪)世界を描いたディストピア小説だ。伝えるメッセージはいくつもある。そのうちで今日する話は一番大切な主張ではないだろう。しかし、この〈栗の木カフェ〉の描写がどうにも頭から離れない。
〈栗の木カフェ〉について
ウィンストンはハッとして深く確信したーーそのうちサイムは蒸発させられる。知性が勝ちすぎるのだ。ものがはっきり見え過ぎるし、物をはっきり言い過ぎる。党はそうした人間を好まない。そのうち彼は消えていなくなる。そう顔に書かれているではないか。
言わなくていいことを口にするし、読書量が多すぎるし、画家や音楽家の溜まり場である〈栗の木カフェ〉に足繁く通っている。〈栗の木カフェ〉に終始出入りすることを禁ずる法律はないし、不文律さえなかったが、その店はなぜか不吉なのだった。名誉を剥奪された昔の党指導者たちが、最後に粛清される前に、ここによく集まったのである。
ウィンストンは主人公。サイムは、主要キャラクターではなく上述の理由により「消される」、「最初からいなかったことにされる」人間だ。
やがて粛清される者が集まり、一九八四年の世界で「正常さ」を保っている人間は寄り付かない場、〈栗の木カフェ〉。
一九八四年という退廃の中にある退廃、〈栗の木カフェ〉のような場所こそが、まだどうにか正常さを保っている我々の世界で必要なことではなかろうか。小説では〈栗の木カフェ〉やサイムの姿を通して、逆説的に好ましい人間性が描かれているように思われる。
〈栗の木カフェ〉に集まるのは読書をする、すなわち毎日自動的に届けられるテレスクリーンや新聞の情報以外に、能動的に言葉・思想をインプットし、自身も思考する人。画家や音楽家は、自身の内なるものを形に変える表現者だ。
私たちには、何かを感じて、考えて、表出することが必要なのだ。
無性に〈栗の木カフェ〉に戻りたくなった。こんなにあのカフェが恋しくなったことなど、それまで一度もなかった。あのお決まりの隅の席、新聞やチェス盤、いつでもふんだんにあるジンが、懐かしく目の前に浮かんできた。それに何といっても、カフェのなかはさぞかし暖かいだろう。
始め〈栗の木カフェ〉を忌避していた主人公はやがて、〈栗の木カフェ〉に入り浸るようになった。思考を止めた人間から、一九八四年の世界では許されない、独立した思想を持つ個人への変化だ。
カフェのなかはさぞかし暖かいだろう。
願わくば、私にとっての〈栗の木カフェ〉なる場所も、そこで顔を合わせる人も、変わらずにあって欲しいものだ。
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しばし「恋に恋する」とか、あるコンテンツそのものを好きなのではなくそのコンテンツを好きな自分が好きなだけでは、といった揶揄が飛び交うことがある。私は読書や音楽が好きなつもりであるが、読書や音楽を好む自分のことを好きであるのでもいいかな、と思う。〈栗の木カフェ〉にいる人は、多分素敵な人だから。
以上、最近心に潤いを補充する余裕をなくしがちな私の内省。
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