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なぜ剣持刀也はロリコンなのか?——ロリコンと虚空教の共通点から読み解く深層心理【考察】

 1月3日放送の「だいたいにじさんじのらじお」(通称:だいさんじらじお)では、天宮こころがパーソナリティを務め、剣持刀也がゲストとして迎えられる。天宮こころは界隈ではロリと認識されており、剣持氏はロリコンであることを公言している。当然、この二人の共演は大きな反響を呼び——

 リプ欄はご覧の有り様となった。

 確かに、剣持氏が配信でロリについて熱弁すると、リスナーは「は?」「こわい」「おつあご〜」と辛辣なコメントを送る(剣持リスナーが辛辣なのはいつものことだが)。しかし、本当に彼は危険思想を持ったやベーやつに過ぎないのか? 彼がロリを愛するのには深い理由があったとしたら?
 私は剣持氏のとある発言を聞いて、「ロリコン」と、彼がリアルソロイベントで説いた「虚空教」は、どちらも「純粋さを大切にする」という深層心理の表象ではないかと思い至った。本記事では、そのことについてまとめる。
 この記事を読めば、あなたも剣持刀也という男の捉え方が大きく変わる……かもしれない。

(※本記事で扱う「ロリコン」は剣持氏に限定したものであり、通俗的なロリコンを取り扱ったものではないことを付記しておく)


【剣持刀也のロリ観】

 「2020年最後の剣持刀也」の配信において、剣持氏は自分がロリをどう捉えているかについて熱弁した。まずは当該部分の書き起こしと、その解釈について述べたい。

(「2020年最後の剣持刀也」3:03:04〜)

〜〜〜以下、書き起こし〜〜〜

 みんな、ロリ配信をする人達に言いたい。これ。

 なぜステレオタイプを模倣する事でロリに追随しようとするのだ。君は既にロリの経験者なんだ!
 ロリってのは、追い求めるものではないんですよ。振り返るものなんですよ。子どもって何が良いかっていうと、何にも染まってないからですよ。無限の可能性を持っていて、どっちだって行ける道があるっていう状態、可能性こそが子ども。その象徴じゃないですか。なのに、何か、こういう型を決まったのに模倣してそれになろうっていう、その型を決められたっていうのは……
 あのね、大人になっていくと、あらゆる選択肢がだんだん道がなくなっていって、型にはまって、同じ形に揃えられるんです。そういう大人になるっていう行動を取りながら、子どもを目指すのは、これは、大きなパラドックスを孕んでいる! それに気づいていないんですよ。
 自由なんですよ! そう、何かを、形、決められた形に行くっていうのは、子どもの本質から一番遠いのに、それで子どもを目指すっていうのは、これは間違っていますから……そう。はい。

〜〜〜以上〜〜〜

 剣持氏は「大人」「子ども」を対比して語っている。この文脈における「大人」と「子ども」はどんな象徴として描かれているのか。私なりの解釈を交えて整理する。まずは「大人」について。

大人になっていくと、あらゆる選択肢がだんだん道がなくなっていって、型にはまって、同じ形に揃えられるんです。

 「大人」を「社会人」や「サラリーマン」と読み替えれば分かりやすいだろう。毎日同じスーツを着て、同じ時間に出社して、同じ業務に取り組み、同じ時間に退社する。平日はその繰り返しだ。休日はレジャーを楽しむが、それも大半はSNSやニュースなどの情報メディアによって訴求された、型にはまったもの——スポーツ、映画、ゲーム、アニメを受動的に食い潰すだけ。
 属人化された労働者を安定して生産し、消費を促すことで利益を生むためのシステム。それこそが、〝あらゆる選択肢がだんだんなくなっていって、型にはまって、同じ形に揃えられ〟た「大人」の世界だ。それは決して悪いものではない。社会を安定的に維持するために生まれた合理的なシステムだし、多くの人間が受け入れた結果として成立したのだろうから。実際、楽だと感じることは多々ある。
 しかし、その無機質な日常サイクルに、倦怠感を抱いている方も多いのではないだろうか。「子どもの頃は同じ作品を何度も見るぐらい物事に熱中できた。でも大人になって今では、何時間もぶっ続けでゲームをする気力がなくなって、積みゲーが溜まる一方だ……」この記事を読んでいるあなたも、そんな喪失感を抱いたことはないだろうか。

 そんな「大人」に対して、「子ども」はどうだろうか。

ロリってのは、追い求めるものではないんですよ。振り返るものなんですよ。子どもって何が良いかっていうと、何にも染まってないからですよ。無限の可能性を持っていて、どっちにだって行ける道があるっていう状態、可能性こそが子ども。その象徴じゃないですか。

 「子ども」は大人のように型にはまっていない。何にも染まっていない。自由の象徴だ。それが、剣持氏の発言で「大人」と対比されている「子ども」である。
 好奇心旺盛。白紙のスケッチブックに思い思いの絵を描き、砂場で好きなものを作り、屈託のない笑みを浮かべる。「定職に就いて、家庭を築き、老後も安定して暮らせる将来を……」と社会が提供する理想像や限界など考えもせずに、将来の夢を語る。何者にでもなれる、どこにだって行ける道があると感じさせる。そんな、型にはまらない無限の可能性を秘めた象徴の「子ども」こそが剣持氏の愛するロリであり、彼のロリ観なのである。

<2021/3/2追記>

 「ロリは型にはまらないもの」という剣持のロリ観を垣間見れる出来事が起きたので追記する。

 2021年3月1日、参加者全員がロリになるAmongUsコラボが発表された。黛灰はこのコラボ企画の告知をする際に"お兄ちゃん"呼びした。

 黛氏のツイートに対して、リスナーは「みててねおにいたん!」という言い回しがロリとしては正しいと指摘した。

 この指摘ツイートに対し、剣持氏は直接リプを送った。「みててねおにいたん!」こそが正しいという捉え方は、型にはまった『ロリキャラ』でしかない。そうした制約に縛られない自由さこそが剣持にとっての『ロリ』だ。
 リスナー個人を槍玉に挙げるような書き方になってしまったが、もちろんSOU(そ↑ちゃん)さんは何も悪くない。ロリのことになると早口になる男子高校生に絡まれただけの話である。
 以上、この件については「前夜祭とにじFesを生き抜いた伝説の傭兵、剣持刀也(7:16~)」の配信で剣持氏本人が熱弁しているので参照されたし。

<追記以上>

 だから、ロリ配信をする際にロリを追い求めるのは間違っている。アニメに登場するようなステレオタイプな——型にはまったロリキャラを模倣するのは間違っている。パラドックスを孕んでいる。原初の姿であった、型にはまっていなかった「子ども」の頃を振り返ることで、初めてロリ配信ができる。これが一連の発言に関する私なりの解釈である。


 大人は大人として生まれるのではない。誰しも、原初は純粋な子どもであった。それを思い出すことが大切なのだ——私はこの語り口に、虚空教と同じものを感じ取った。


【虚空教との共通点】

 虚空教とは、剣持氏がリアルソロイベント「虚空集会」で作り上げた架空の宗教である。
 曰く——この世界の原初は虚空であった。そこから生まれた我々人類は、本来、持たざる者であり、失うものは何もない。原初である虚空に思いを馳せることで、その立ち位置を思い出し、豊かに生きることができるのだという。
 以前の記事で、虚空教について語る場面の台詞を書き起こした。そこから一部引用しよう。

 情報や物で飽和する現代。その圧倒的な情報量に押し潰され、自分の立ち位置が分からなくなってしまった結果、心を病める者、傷つく者のなんと多いことでしょうか!
 しかし、原初に思いを馳せてください。人間は生きるために狩りをし、飯を食らい、寝る。それだけだったはずです。(中略)どうか忘れないでください、我々の立ち位置を。我々には失うものなど無いのです。何故ならば、元々何も持っていなかったのだから。

 原初の虚空に思いを馳せること、ロリを振り返ること。「手垢でベタベタに汚れた現在の立ち位置から、無垢だったあの頃の憧憬を思い描く」という点で、この二つは同じことだ。図解するとこうだ。

虚空教とロリコン.001

(正月早々にこんな図を作るな)

 虚空教の教えを力説すること、ロリについて熱弁すること、二つは一見すると別物に見えるが、実は同じことを説いているのだ。これこそが、「純粋さを大切にする」という深層心理の表象。剣持氏の根幹をなすものだと私は考える。

 なぜ剣持刀也はロリコンなのか? 初心に返ること、子どものような好奇心を忘れないこと——そんな風に、彼は純粋さを忘れない心優しい青年であり、その土壌にロリを愛でる心が咲いた。だから彼はロリコンになった。そう結論づけることができるのではないだろうか。
 教祖を演じたり、ロリコンだったり、一見すると危険思想を持ったやべーやつだが、実際は等身大の青年がそこにいる。そのギャップが彼の魅力に繋がっているのだ。

 結論としては以上だ。次項ではおまけとして、この仮説を「物事をシニカル(冷笑的)な視点で観測する感性」「剣持氏自身がロリ化する現象」に投射し、さらに彼の人物像を掘り下げる。

 ……余談だが、剣持氏が虚空教徒に原初に思いを馳せさせたのは、それがロリを振り返るトレーニングの一環であり、良質なロリを生み出すという算段を練っていたからなのかもしれない。これが本当の全人類ロリ化計画だった……? 止めてくれてありがとうガッくん。


【シニカルな視点、剣持自身のロリ化】

 剣持氏といえば、キレのある辛辣なツッコミだ。リスナーから届く有象無象のクソマロを、さまざまな角度から火あぶりにする。これには「物事を客観的・多角的に分析する能力」「物事をシニカル(冷笑的)な視点で観測する感性」が欠かせない。主観的な見方だけでは多彩なツッコミはできないし、純朴すぎれば辛辣なツッコミはできないのだから。
 純粋さを大切にすること、物事をシニカルな視点で観測すること、この二つが両立するのは一見すると矛盾しているように感じる。しかし、こう考えるとどうだろうか。物事を客観的に分析する能力に優れた剣持氏は、その能力を持ってして「子ども」と「大人」を対比した。そして、「子ども」の純粋さを大切にしているがゆえに、「大人」の社会を、世の中をシニカルな視点で観測する感性を身に付けたのだと。
 辛辣なツッコミに時おり愛が見え隠れするのは、純粋さを大切にしていることの証左。そう考えることができるのだ。

 そして、「僕プリン!」に代表されるように、剣持氏は配信裏での可愛らしいエピソードが暴露されがちだ。巷では「ロリを愛するあまり、自身がロリになってしまった」と評されている。
 純粋さを大切にすることができるのは、本人が純真さを秘めているから。隠し切れない本心が露呈した結果が、剣持氏自身がロリ化する現象の正体なのだ。


【最後に】

 もちろん、単純な仮説ひとつで推し量れるほど人間は単純ではない。複合的で多義的であるからこそ魅力は増す(シャニマスで学んだ)。それでも、「純粋さを大切にする心が、剣持刀也というVtuberの魅力の一端を担っている」と考えれば、確かに言えること二つがある。

 一つ、純粋さを大切にする心を持つのは剣持氏だけではない。我々も持ち得るのだ。誰にだって、剣持氏のようなロリコンになる素養がある。
 剣持氏が言ったように、ロリは振り返るものだ。我々もまた、何も知らない純粋な子どもの頃があり、それを振り返ることができる。その行為から良質なロリが生まれるように、人生を豊かにするヒントがあるのかもしれない。

 そして、もう一つ。なあ剣持。どんな時でも「ロリ」のような純粋さを大切にする、そんなお前だからこそ……

 刀子、期待してるぞ。




<2021/1/3追記>
 ……記事のオチとして刀子ネタを置きましたが、それは「型にはまったもの」を追い求める形になるなので、剣持氏には刀子ネタに囚われない「型にはまっていないもの」を期待したいですね。ロリロリローリロリ。


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