手術してくれた主治医が外科医を卒業していった

「僕ね、この病院辞めるんです」。

それを聞いたとき、軽くクラッときて、涙が出そうになった。「私を置いていっちゃうの?」と。
でもその気持ちをぐっとこらえて、なんでもない感じを装って、「そうなんですか」と答えた。がんを併発していた私はいくつかの科にかかっていたから、それまでにも辞めてしまった先生たちがいて、そういうこともあるって知っていた。

だけれども。
食道がん摘出手術をお願いしたこの食道外科部長の主治医は、食道なしニンゲンに改造後の劇的な衰えから新生活の元気を取り戻すまで、ずっと伴走してもらってきたひとだ。だから、突然「親鳥から離れて飛んでいきなさい」って言われたようで。広い空に急に放たれ、どこにどうやって飛んでいったらいいの?みたいな、とてつもなく心細い気持ちになった。

主治医との思い出が走馬灯のように駆け巡…らないけれど、これまでのことを思い返す。私が食道摘出手術を「自分の決断」として決めて受けられたのは、この主治医だったからだ。

もし初めての治療だったら、わりとすんなり受け入れていた気がする。言われた通りに。自分の意志というよりは「そういうもんだ」という流れで。
でも、併発していた下咽頭がんの化学放射線治療をすんなり受け入れ、そのダメージで弱り切っていた私は、「もうこれ以上の苦痛は嫌だ」と、拒否感がとても強かった。

「初期だから、物理的に食道ごと切って取ってしまったら安心できるのでは?」という主治医の考えは理解できたし、最善なのだろうと思った。
だけど、感情がもうとにかく拒絶だったのだ。

なかなかうんと言わず、そればかりか「これって本当にがんなんですか?」などと言い出した私。内視鏡で見て経験的に確実にがんだったのだろう。でも、確信がないと進めない私を否定せず、「生検に出す?」と言いながら転院前のデータを見つけ、「あ、ちゃんと生検やってたよ。がん細胞って出てる!」。
焦った様子の主治医を見たのは、このときだけだったと思う。

そして、このようなやり取りの後、1~2週間に1度の診察が2か月くらい続いた。
後から考えると、「こいつは時間がかかるぞ」と、もうじっくり時間をかけようと決めたのだろう。毎回、「こういう治療法を見たんですが…」などと質問を考えていく私に、ひとつずつ丁寧に答えて、決断を急かすことなく次の予約を入れるのだった。
「先生ならこの治療を受けますか?」と聞いたときには、「僕は弱虫だから受けるって即答できないけど、もし妻が同じ状況だったら間違いなくこの治療を勧めるよ」と言った。

何回目かの診察で彼が言ったことが、私の心を決めさせた。
「あのね、患者さんは『医師を信頼して手術を任せる』とかって言うんだろうけど。医者側も、患者さんを信頼しないと手術はできないよ。だって、術後がきついもん。頑張れる人にしか、僕はこの手術を勧めない。でも、あなたはがんばる人でしょ?」

なんでわかったんだろう? 幼い頃から認めてもらえる唯一で最大の私の強みは、「まじめな頑張り屋」ということだ。数回の診察でのやりとりの中で、私の性格を見抜き、信じてくれていた。
ついに私は、「手術を受けます」と、自分が選んだこととして言った。


とはいえ。
手術後は、聞いていたことから意外なことまで、思っていた以上に、嫌なことがいっぱいあった。

食道を取り、胃を引っ張り上げて食道代わりにして再建したので、胃袋も事実上失っていて、食べられる量が極端に減った。主治医は「食べられるものは何でも食べて」と言った。そして、「苦しいから少しの量を何度も食べる」という一般的な指導に反して、「せっかく30年長生きするためにつらい手術を受けたんだから、もとの生活に戻れないと意味がないよね。1日3回の食事で済むように頑張って食べなよ」というスパルタだった。

私は親鳥についていくひな鳥のごとく「ハイ!」といいお返事をして、指導に従った。時々、そのせいで苦しい思いをして「聞いてないよ~!」と思うこともあったけれど。主治医は私がとても慎重派であること、失敗したら考えて対策するタイプであることなども考慮に入れて、下手に制限しすぎしないようにしてくれたのだと今はわかる。

運動を解禁されてから、激しい運動には自信がなくてヨガを始めて報告したら、「ヨガくらいでいいの? もっとやればいいのに。トライアスロンやってる患者さんもいるよ」と言われて、悔しくて格闘技ジムに通い始めた。
逆に、海外旅行に行くと伝えたら「本当に大丈夫?」と心配されたりもした。

アメとムチ、ウェットとドライのあんばいが絶妙で、強く引っ張られ過ぎず、適度にお尻を叩いてもらって、出来の悪い生徒みたいになっているなと思ったりしながら、ピヨピヨとついてここまできた。

予後観察の内視鏡やCTを繰り返し、後遺症を和らげる処方をしてもらうために定期的に診察を受けて、手術後5年になる頃、「本当に元気になったよね。よかったね。手術の後はすごく大変だったもんね」と、とても優しいことを言ってもらった。いつも淡々としていたから、そんなふうに思ってくれていたとはわからなかった。

「お風呂に入れていないんだろうな」とわかるような、脂ぎった髪の毛になっちゃってることなんかもあって、先生がいつも忙しそうすぎて。だって、手術前や手術後、私が聞きたいことに答えている時間がないときは、「後で時間をとるから」と、気が済むまで話をしてくれた。あんなことをしていたら、時間がいくらあったって足りないだろう。ちゃんと寝られているのだろうかと心配だった。
だから、診察ができるだけ短時間で済むように心がけて、お互いあまり多くは語らなかったのだ。私が新しい身体でベストを尽くしていると信じてくれている主治医の診断を、私も信頼して。


その先生が辞めちゃうなんて…。
「僕の妻に、心臓の手術が必要になっちゃってね。このままだと忙しすぎて寄り添えないから」。
そうだったのか。当たり前だけど、先生にだって先生の人生がある。奥さんをそんなふうに大切にする人でよかった。
もう手術後6年目だから巣立ちの時期なのかも。そんなふうに思おうとしたら、主治医が言った。「治療はもう終わってるし、僕が次に行く病院に来てもらおうと思ってるんだけど、どう?」。

連れて行ってくださるんですか!? よかった。心からホッとした。
でもそんな動揺を見せないように気をつけて「はい、お願いします」と答えた。

同じ外科医ならまた忙しくて意味がないだろうと思って聞くと、内科医になるのだと言った。たぶん50歳くらいで、医師として脂がのり切った時期に、外科医から内科医へ。この決断はどんなものなんだろうか…そんなことを考えていたら、「いつも忙しくて慌ただしかったから、今度はもう少し患者さんとゆっくり話しができるようになっていいなと思ってる」。
いや、これまでも必要なときはじっくり話していただきましたよ!
でも、確かに。もう少し話せたら私もうれしい。

私が病院を卒業する前に、主治医が外科医から卒業していった。


「ごめんね、バタバタしていて」。
主治医の転職先の病院での初診察。前の病院に負けずけっこう待たされるなと思いつつ待ち、ようやく呼ばれて診察室に入ると、院内PHSで呼ばれたりして忙しそうな姿は、デジャブのよう。

「今日はsienaさんと話せるの楽しみにしてたのに。いつもはそんなことないんだよ。今日だけバタバタになっちゃって!」
え? 私との会話を楽しみにしてくれるんですか? そんなことを言う方だとは前の病院では想像できなかった。転職して心の余裕ができたのかな。次回は私もお話しするのを楽しみに来ていいんですね。
親鳥とひな鳥のような関係が、いつの間にか人間の大人同士の関係性になっていた。
だってたぶんほぼ同い年なんだよな。そのうち私も丁寧語じゃなくなって、人生のこととか話せるようになっちゃったりして。


「先生、奥さまお大事に」。
私も、3年前だったらまだ自分のことばっかりで言えなかっただろう一言を添えて、診察室を出た。

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