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1974年:ヘルタの日本訪問

最近、ふとしたことがきっかけで、ヘルタが1974年8月に日本代表チーム(当時は全日本と呼ばれていた)と3試合の親善試合を行うため、来日していたということを知った。
当時の情報を調べることにしたのだが、ヘルタの公式サイトなど、ドイツ側では情報を見つけることができなかった。ちょうど、地元の図書館に読売新聞の縮刷版が収蔵されていたので、当時の新聞報道からこの3試合がどのようなものだったのかを調べることにした。

ヘルタの来日まで

1974年7月17日 読売新聞 西独のプロサッカーを 8月に招待 3試合
7月16日に日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)がイランで9月に開催される第7回アジア競技大会へ向けた強化策としてヘルタを招き全日本チームと3試合行うことを発表している。試合は1日おきで5日間で3試合を行うという今ではとても考えられないスケジュールとなっている。
<試合スケジュール>
8/2 19:00 神戸中央球技場(今のノエビアスタジアム神戸)
8/4 14:30 国立競技場
8/6 19:00 大宮サッカー場(今のNack5スタジアム大宮)
ヘルタの注目選手の紹介とともに、『同チームは今シーズンの西ドイツ一部リーグで18チーム中8位の成績で、昨シーズン、有力選手の“八百長事件で”欧州サッカー界をわかせた。』と記載されている。
ここで書かれている八百長事件というのは、1971年にブンデスリーガで起きた大規模な八百長事件のことで、この事件では7クラブ、50人以上の選手等が関与し、その中にヘルタの選手が含まれている。
なお、事件の詳細については、「ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡」( ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー/著、秋吉香代子/訳、バジリコ)の9章に詳しく記載されている。
また、「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマー氏がヘルタの監督に就任する予定(契約未完了、来日未定)であると記載されている。

画像3

▲当時のヘルタのメンバー
画像はKikcerのサイトより
https://www.kicker.de/hertha-bsc/kader/bundesliga/1974-75

ヘルタの来日

1974年8月2日 読売新聞 スピードと技術 日独交歓サッカーの「ヘルタ」きょう全日本と第1戦
なんと5日間で3試合を戦う日程にもかかわらず、ヘルタは、試合前日の夕方に来日したそう。(ルフトハンザ機で大阪空港に到着。)仮にベルリンから直行便だったとしても、少なくとも半日以上ははかかるため、かなりハードな移動スケジュールである。
試合の明日に控え、ヘルタの紹介が記事の中で次の通りされている。
『ヘルタBSCベルリンは、82年前の1892年に創設された名門クラブチームで、西ドイツ1部リーグでは昨年度8位の成績。71、72年に連続3位となったのが最高で、今シーズンから日本でも有名なデットマール・クラマー氏が監督に就任する予定だったところ、来日直前に話がこわれ、ゲオルグ・ケスラー氏が監督と決まった。「ヘルタ」はゲルマン神話の“大地の女神”。』
残念ながら、ヘルタの名前の由来が船の名前であることは記載されていなかった。(記者がそのことを知っていたかは不明。)
記事の中の注目選手としては、GK Horst Wolter(70年ワールドカップメンバー)、スウェーデン代表Benno Magnussonなどの名があげられていたが、ヘルタの名選手(ヘルタでリーグ戦253試合83得点、ドイツ代表選手でもあった)の一人であるErich Beer(当時27歳)も来日している。
ヘルタの紹介に続いては、全日本の陣容等について記載され(当時の全日本の監督は長沼健氏で、釜本選手を中心としたチーム)、記事は、『西ドイツ特有のスピードとテクニックに満ちた激しいプレーをするものと期待される。全日本に勝機があるとすれば、相手の長旅の疲れと、日本のある差に体が慣れない第1戦だろう。』という文章で締めくくられている。
当時は、今と異なり海外サッカーの情報量が極めて少なかったことが垣間見える。ヘルタがどのような経緯で招待されたのかは特に記載がなかったため分からないが、単にドイツの強豪ということで呼ばれたのかもしれない。
なお、対戦相手がプロであるドイツのクラブで、しかも、前年の73年には日本代表は同じドイツの1FCケルンに3戦3敗していることもあって、勝てる可能性は低いというのが当時の妥当な予想だったようだ。

第1戦 全日本 2:2 ヘルタ

1974年8月3日 読売新聞 全日本善戦、分ける 日独交歓サッカー
神戸で行われた第1戦は2対2の引き分けに終わっている。記事によると、『長旅の疲れで動きの鈍いヘルタに対し、全日本は釜本、小城両ベテランの活躍で2点を奪ったが、後半ヘルタの猛追で引き分けた。』とあり、さすがに前日夕方の来日では、ヘルタのコンディションは良いわけがない。
試合経過だが、前半20分にヘルタがCKから先制、26分に全日本が釜本のゴールで同点、さらに44分にスイーパーの小城選手がドリブルで攻め上がり25メートルのシュートを決め、2:1で全日本がリードして折り返している。
『後半に入るとヘルタは相変わらず思い動きながらプロのメンツをかけて体を張った試合ぶりを見せ…』ヘルタは後半9分に再びCKから追いついている。『その後もヘルタは、壁パスや速いドリブルなどで日本陣を圧迫したが、バックスが最後まで持ちこたえて引き分けた。』という展開だったそう。それにしても、壁パス、バックスという表記がものすごく時代を感じさせる。

第2戦 全日本 1:1 ヘルタ

1974年8月5日 読売新聞 釜本同点シュート また引き分ける 日独交歓サッカー
国立競技場で行われた第2戦も1:1の引き分けに終わった。記事には、『暑さで動きの鈍いヘルタに対し、全日本は果敢な攻めで、互角の勝負を挑み、後半40分釜本の胸のすくような同点シュートで、第1戦に続き連続引き分けた。』とある。
気象庁の過去の気象データによると、試合当日の東京の15時の気温は約32度で当時としては確かに暑い日で、とりわけヘルタには厳しい気象コンディションだった。

Screenshot_2020-11-24 気象庁|過去の気象データ検索

試合展開だが、ヘルタは後半9分にCKからシュートコースが変わるラッキーな形で先制する。しかし、暑さで消耗したことから、この先制点をきっかけに、『ヘルタは逃げに回り、バックス間でゆっくり球を回す消極戦法に一転。このスローテンポの展開に、全日本はが然ハッスル。』という展開になる。ここから、全日本が反撃にでて、後半40分に全日本が釜本選手のゴールで追い付き、結果、引き分けで試合は終了した。
試合の総評は、『両軍暑さが相当こたえたように見えたが、若手の多い全日本の積極的な攻撃が光った。』というものだった。
なお、この第2戦の記事には、試合の記事とともに「コーナーキック」というタイトルのコラムが掲載されているのだが、その執筆者名は牛木となっている。この読売新聞の牛木記者というのは、のちに日本サッカー殿堂入りを果たすことになる牛木素吉郎(うしき そきちろう)氏のことである。

第3戦 全日本 0:2 ヘルタ

1974年8月7日 読売新聞 ヘルタ、最終戦で初勝利 速攻 プロの面目 日独交歓サッカー
最終戦となった大宮での最終戦は、ヘルタが2:0で勝利を収めている。記事によると、『ヘルタBSCベルリンはプロの面目をかけた鋭い攻めで前半に2点をあげ、釜本を軸に反撃しようとする全日本を完全に抑えて、最終戦で初勝利をあげた。』とのこと。
試合は、ヘルタが17分にCKから先制し、38分には後ろからの攻め上がりに全日本の守備がついていけず、追加点をあげたそうだが、そのヘルタの追加点の場面について『全体的にはスローテンポのように見えても、チャンスを見逃さずに鋭く攻め込むところはさすがにプロである。』と書かれている。やはりアマチュアとは格が違うプロというところか。
なによりも個人的に興味深いのは、ヘルタの監督の次のコメントだった。
『第1戦には旅の疲れがあった。第2戦は昼間のゲームで暑かったから力をセーブした。しかし、最後はナイターだし、1つは勝って帰らなくては。』アマチュアである日本相手に勝てないようではプロ失格といわんばかりである。
なお、1勝2分けでシーズン開幕前のこの全日本との3試合を行った74/75シーズン、ヘルタは、ブンデスリーガで19勝6分け9敗の成績をあげ、ボルシア・メンヒェングラートバッハに続く、2位でシーズンを終えている。

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最後に

以前、細貝選手や原口選手が在籍していた頃は、今の様に投資家からの多額の資金投入などもなく、財政的にはどちらかといえば苦しい状況にあった。実際、ヘルタは、中国などアジアからの投資を狙っており、首脳陣が中国を訪問するなどしていた。また、日本ツアーが噂されていたこともあった。
その後、ヘルタは、ブンデスリーガと同じく北米市場に目を付け、アメリカ合宿を実施するなどしている。この流れからすると、今後、日本人選手の在籍などない限り、残念ながらヘルタが日本遠征にやってくる可能性は極めて低いと考えられる。それでもいつの日か、ヘルタが再来日することを願って、終わりとしたい。
最後までご覧いただきありがとうございました。

参考1:ヘルタの当時のメンバーと出場記録

1974/75シーズンのヘルタのメンバー(リンクをクリックすると、https://www.herthabscmuseum1892.deの当時のメンバーの写真付きのページへ飛びます。)は次の通り。
()は日本遠征の出場記録。読売新聞の記事から集計したもの。
GK
Horst Wolter(1試合出場)
Thomas Zander(2試合出場)
DF
Frank Hanisch(1試合出場)
Jürgen Diefenbach(2試合出場)
Klaus-Peter Hanisch(1試合出場)
Ludwig Müller(3試合出場)
Hans Weiner(1試合出場)
Holger Brück(3試合出場、2得点)
Uwe Kliemann(3試合出場、1得点)
Michael Sziedat(3試合出場※)
※3戦目の記事に記載のメンバーにスティダートという選手がいるが、該当しそうな当時のメンバーはこの選手と思われる。
MF
Wolfgang Sidka(1試合出場)
Erwin Hermandung(2試合出場)
Gerhard Grau(3試合出場)
Erich Beer(3試合出場)
FW
Lorenz Horr(3試合出場、1得点)
Benno Magnusson (1試合出場、1得点)
Michael Roßbach(出場なし)
Karl-Michael Wohlfahrt(1試合出場)
Detlev Szymanek(1試合出場)
Johannes Riedl(出場なし)
Kurt Müller(3試合出場)

参考2:全日本の召集メンバー

日本サッカー協会:代表TIMELINEより
http://samuraiblue.jp/timeline/19740806/
GK:横山謙三、垣内輝久、瀬田龍彦
フィールドプレイヤー:古田篤良、小城得達、川上信夫、大仁邦彌、西野朗、藤島信雄、荒井公三、渡辺三男、釜本邦茂、永井良和、平沢周策、高林敏夫、落合弘、吉村大志郎、足利道夫、今井敬三、中山知明、小滝春男、石井茂巳、碓井博行
監督:長沼健


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