漂流レジ(2024.03.17〜03.23)

僕の恋人であるアカリが3年続けた会社を辞め、精神的な疲弊を癒すのにかかった月日は丸1年程度だった。
外出が出来るまでに復調したアカネは運動不足解消と気分転換を兼ねて夜中に散歩するのが趣味になり、頻度としては2回に1回くらいだけれど、僕はそれになるべく付き合う様にしていた。
その甲斐もあってか彼女は数ヶ月前に社会復帰を果たし、以前の様に愚痴を漏らしながらもドラッグストアでアルバイトを始めていた。
そうなってからも散歩に出る事が元気のバロメーターの様になっているらしく、夜中の散歩は続いていた。
「うちのばあちゃんも散歩が趣味だから、アカリが散歩が好きって言ったら喜んでたよ」
夜中の住宅街を並んで歩きながら、先日実家で祖母と話した事を思い出して報告する。
「いつか会えたら散歩に行こうって伝えておいて」
アカリは微笑んで答えてから、まぁ、と言葉を続ける。
「私の散歩には別の目的があるんだけどね」
「気分転換と運動ならばあちゃんと同じじゃない?」
尋ねる僕の方をチラッと見て、バツの悪そうな顔でアカリは視線を歩く先へ戻した。
「タカは漂流レジって知ってる?」
「知らないけど、レジって店で会計するあのレジのこと?」
アカリは前を向いて歩きながら頷いて僕に説明する。
「この街の噂でね、道端とか路地裏とか、何でもない所にいきなりレジ台が現れてね、そこの店員にレジを通して欲しいものを差し出すと、何にでも値段をつけてくれるの」
僕からすると突拍子もない話で、どこから触れていいのか見当がつかない。
「何にでもって、ジュースが幾らとか、そう言うこと?」
「そう、ジュースみたいな売り物でも、そこら辺に生えている雑草でも、何にでも」
所謂都市伝説なのだろうけれど、それに何の意味があるのか判らない。
そんなものに値付けされた所で何か良いことがあるのだろうか。
僕は漂流レジという都市伝説にオカルト要素もホラー要素も見出せず、特に恐怖も不安も抱かなかったが、話に漂流レジが挙がった流れを思い出して困惑していた。
「もしかして、アカリはその漂流レジを探す為に散歩をしてるっていうんじゃ」
「そう」
アカリにオカルト趣味があるなんて聞いた事がないし、そもそもホラー映画やテレビの特番を観ているのすら見たことがなかった。
「なんでそんな噂を信じているのさ」
問いかける僕の言葉にアカリは立ち止まってこちらを真顔で見上げて答える。
「噂じゃないからだよ」
「噂じゃないって」
「私ね、前の会社を続けるか迷っていた時に漂流レジに出会ったの」
アカリは近くにあった電柱を指差して話を続ける。
「その時はああいう所にいきなりポツンとレジ台があって、エプロンした女の人がそばに立ってた。何をしてるんですかって聞いたら、『何にでも値段をつける為です』って言われた」
街灯で足元が照らされた電柱を眺めながらアカリは続ける。
「だから私、『今の仕事を続けることに値段をつけてください』って言ったの。そしたらマイナス100万円だった。私、頑張ろうと思ってるのにマイナスなんてつけられて腹が立って、そのまま帰った。でも結局パワハラとセクハラに耐えられなくて辞めたでしょ。もっと前に辞めれば精神的に追い込まれて貯金を崩しながら生活するなんてことにならなかった」
「漂流レジが正しかったと言いたいの?」
僕にとっては漂流レジという存在そのものが信じられないものの、アカリの話では実在自体は当たり前のものとして扱われている。
夢の中にいるような居心地の悪さを感じる。
僕の言葉にアカリが頷いて、続ける。
「今のバイト先で社会復帰するのも不安だったから、求人票も漂流レジに通してもらった。そしたらプラスで300万って出たから面接を受けたし、今楽しく勤められてる」
立ち話を切り上げてまた歩き始めるアカリの後を追って僕も歩き出す。
僕が散歩だと思っていたものは、アカリにとっては漂流レジの探索する手段だったのだ。
プラス300万円という事は、少なくとも数年は今のドラッグストアで勤め続けられるという予想に思える。それ自体がアカリに自信を与えたのは間違いなく、漂流レジの奇妙さが拭えないものの、悪い存在にも思えずに複雑な気分だった。
「あ」
アカリが小さく声をあげる。
僕の手を掴んで、公園の前に置かれた自動販売機の方へと引いて進んでいく。
「急にどうしたの」
尋ねながらも自動販売機の光で見えていなかった暗がりにレジ台が置かれ、女性が一人立っていることに気付いた。
真っ黒なエプロンをつけた無表情な女性は、僕やアカリに何を言うでもなく、ただ立っている。レジは何の変哲もない、どこの商店にでもありそうな機体で、女性の手に持たれたハンドスキャナーが赤い光を点滅させている。
漂流レジが本当にある事実に固まってしまっている僕を他所にアカリは女性に話しかける。
「この人と結婚することに値段をつけてください」
「え?」
アカリの言葉に思わず僕は声を出してしまった。
僕をレジに通して僕との結婚に対して意味不明な存在に値段をつけさせるという行為の悍ましさと、それを目的に漂流レジを探していたアカリの不気味さに言葉が出ず、店員がハンドスキャナーを握った手をこちらに向ける姿に慌てて僕はアカリの手を振り払った。
「僕との結婚をこんな意味不明なもので決めようっていうの」
アカリは穏やかな表情で短く息を吐いてから僕につぶやく様に言う。
「感謝してるし、大切に思ってる。だからマイナスでなければそれで良い。私を信じて」
「信じてなんて言う癖に、アカリは僕を信じてないから値踏みしようとしてるんじゃないか」
僕の言葉にアカリは表情を歪め、スマホを操作して画面をレジの方へ向ける。
「じゃあ、この人との結婚に値段をつけてください」
顔はこちらに向けたまま、アカリは僕を見つめて説明する。
「同じドラッグストアに勤めてる薬剤師の人で私によくしてくれる。彼にはタカの事も漂流レジの事も話してあって、私が好きだから、それで決めてくれて構わないって」
何か言わなければ、と思っているうちにエプロン姿の女性がハンドスキャナーでスマホの写真を読み込むピッという電子音が鳴る。
レジのディスプレイに表示される金額が幾らなのか、見たくもないのに目がそちらを向こうとしているのが自分で解る。
そしてそれが幾らでも、僕とアカリはたった今、終わってしまったのだ。

この短編はこの日記から連想して書きました。
https://oka-p.hatenablog.com/entry/2024/03/24/212830

またー。

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