ミッドサマーのディレクターズカット版の感想(2020/03/06/Fri.)

おはよう。

ミッドサマーのディレクターズカット版の公開が大阪でもあるとの事で、発売日当日にチケットを何とか押さえてずっと楽しみにして、遂に当日だった。

感想を述べたいので、以下ネタバレのオンパレードであるし、ネタバレしながらも分析とかじゃなくて完全な妄想の産物しか書いていないのでそういうのが無理な方はここでお別れしましょう。いつかまた縁があればお目にかかることもあろうて。

ちなみに通常版を観た時の感想はコチラ。

https://note.com/sideboard/n/n7a59d1658083

さて、ディレクターズカット版で受けた印象は、通常版よりも観やすい映画なのではというものだった。
通常版よりも物語の前後関係が、感情の揺らぎが、解りやすく繋がっているのがディレクターズカット版であると思った。
通常版は、より主人公ダニーの主観を視点で物語を見せる為に、本来入っている方が理解しやすいエピソードだろうと、ダニーの想像が及ばない部分であるならば意図的に切る(祝祭の進行に違和感が生じてしまう場面は残すものの)ことにより、ダニーの感性で彼女が受け取った恋人クリスチャンや友人達のエゴにフォーカスが当たるように描かれている、とディレクターズカット版を観て感じた。
要因のひとつに、ディレクターズカット版はクリスチャンの困惑や迷いも描いたシーンが多かったことが挙げられる。
クリスチャンがホルガ村の狂気的な伝統を受け入れようとしている様であるとか、ダニーに対して自分の気持ちをぶち撒ける場面がディレクターズカット版にはあって、ダニーだけでなく、彼もまた長く思い悩んでいたんだなと思うに充分な内容で、クリスチャンの健気さを垣間見てダニーへの同情が揺らぐ、のだけれど、揺らぐからこそカットされたのだなと納得もいく。
あくまでダニーの視点から観た失恋の物語だとした場合にクリスチャンの本当の気持ちは「ダニーが知り得ない」という意味では挟まれない方が正しい。正しいんだけど普通恋愛表現は双方の感情の揺れを描くよね、と思うので居心地の悪い不穏な質感に仕上げる為にそれをバッサリ切ってしまったアリ・アスター監督が怖い。
村の長であるシヴの小屋に呼ばれた際にも、自分の中にある倫理観とホルガ村の伝統に対する学術的興味、自分の価値観からすると異様な世界で疲弊し苦しんでいる姿を見てしまうとクリスチャンがクソ男だとはもう思えない。失恋を経てダニーが救われる映画みたいな観方はもう出来ないと思う。
170分あったハズだけれど、全然そんな感じはしなくて、通常版を観た時と同じようにあっという間だった。
むしろ映画としてはディレクターズカット版の方が観やすい気もするくらい(想像で補う事が恐怖や不安を煽るという意味ではディレクターズカットの方が解り易い分だけ怖くないし観やすい)なので、こちらを先に観るのも良いかも知れない。
というかダニー視点の通常版と、一歩引いて物語視点で観られるディレクターズカット版を両方観てみると、アリ・アスター監督がいかにヤバい人なのかを思い知って鳥肌が立つ。どちらも強烈に良い作品だと思う。

以下、断片的に順不同であるけど感想を書いていく。通常版でも描かれていたけれど今回見直して納得いった部分も含めて書いていきたい。

クリスチャンが正直な感情をダニーに表すエピソードを観たせいで、マヤとの儀式めいた性交の最中や、村から逃げ出そうとする辺りの彼の感情について考えてしまい、滅茶苦茶重みが出て恐ろしかったし、通常版である意味印象的だった事後の局部モザイクがディレクターズカット版では加工されておらず、マヤが処女であったという印として血が付着している様が映されていてホルガ村の「ほんまモン」感に気持ち悪くなってしまった。

ダニーがクリスチャンとマヤの性交を覗くに至るシーンの足取りの迷いのなさは、メイ・クイーンを選ぶダンスの儀式で既にホルガ村民の特殊能力(の様な伝統の様な)である共鳴を会得しており、事が行われているあの部屋の人々から「そうなっている」ことを感じ取っていたからではないだろうかと思った。(勿論、これまで積み重ねられたクリスチャンとマヤの視線のやりとりの目撃など予感もあったろうけれど)
初めて観た時は呆気に取られるばかりだった共鳴号泣も、再度観るとその凄まじさに驚愕してしまった。滅茶苦茶怖いのにあそこで物凄くスッキリしてしまった。社会人研修で洗脳される話を思い出してしまい、自分も洗脳される適性がありそうだなと余計なことまで考えてしまった。

通常版で唯一判らなかったロンドン組のコニーの死因もハッキリしたけど、後に彼女の死因となる儀式を描いてしまうとダニーとクリスチャンの関係崩壊の決定打を滅茶苦茶ストレートに描いてしまう事になるのでカットしていたのかなと思う。
通常版ではダニーがジョシュから睡眠薬を貰うシーンを「前日寝れてなかったもんな」と思いながら観ていたけど、子供が犠牲になるかもという良心のど真ん中に釘を打つ要素とクリスチャンとの口論を経てしまったらそりゃもう睡眠薬でも飲まないと眠れやしないよな…と観方が変わった。
通常版も滅茶苦茶自然に睡眠薬くれシーンに繋がっていたのでこんな話があったのかと驚いた。

パンフレットに名前が載ってないのが何故なんだぜ状態のロンドン組のイングマール(ラストサムライにおけるトムクルーズと真田広之的なキャラ被りをペレとかましているのだろうか)、改めて見るとヤバ過ぎる。
あの意味深な目線、手に入らないならいっそ一緒に、もしくは大切な人たちと一緒にみたいな感じはゾワゾワするし、ペレはジョシュやマークともコミュニケーションを取っているので分散されているその感覚がイングマールは集中している分だけ強烈だった。
イングマールはロンドン組におけるペレ、と思うと生贄を連れてくる(女王も)役割を担う村人は皆こんな感じなんだろうと思うとペレやイングマールの異常さは気にならなくなる。
あの人格も村の存続のために育て上げられたものなんだろうし、役割分担で仕事が決まるという話もあった。
ペレとイングマールは飛び込み営業部隊という見方である。営業成績としてはペレの方が稼いだことになるのかも知れない。
イングマールはコニーとサイモンを連れて罪を洗い流す最後の儀式に参加して死を選び、ペレはダニーが新しい血として村に加わったので生きるというのも各々の思考について妄想が膨らむ点だと思う。
そう考えるとマヤのクリスチャンに対する執着も恋というより役割である様に見える。(し、元々そう見えていたものがディレクターズカット版ではよりそう見える)
とか言いながら初見の後、こんな感想を書いていた。

http://oka-p.hatenablog.com/entry/2020/02/29/204601

違和感は自分でもあったんだけど思いついてしまったんで、つい。軽はずみな言動が自分の雑感の足を引っ張る事もある。あの日の自分は今の自分に謝るべきだ。それにしてもはてブの沼に暮らしながらnoteもかましているなんて随分な生き様である。自戒。
ホルガ村はしたたかな村だなぁ、とか言ってる場合じゃないかも知れない。

最後に、ディレクターズカット版を観て一番感じたのはダニーはダニーで割と酷いよなという話。
家族の不幸と不安障害に苦しむ境遇はそれだけで映画が撮れる悲惨さなのに白飛びしそうなくらい明るい地獄に来てしまったという映画史上最悪レベルに運のない人物(最終的に救われてもいるけれど)であり、通常版ではそこに寄り添って観る流れであったのでダニーそいつらクソだよ、ダニー良かったね、という気持ちになって一緒に救われた様な気持ちになっていたけれど、ディレクターズカット版はちょっとダニーの理想に沿って動かされんとするクリスチャンが可哀想に思えてしまった。
この自分の理想のクリスチャンを目指し、自分は努めて冷静に対話でクリスチャンを調和を目指しているという姿勢は滅茶苦茶キツい。
余裕がない分、クリスチャンに常に多くを求め続けているし、そういう意味ではクリスチャンは映画が始まる前からずっとそれに応えようとして疲弊していたのかも知れない。さっさと別れろよと思う人もいるとは思うけど現実にこういう関係多いよなとゾッとする。
クリスチャンは冒頭で別れたことを後悔するかも知らないと漏らしているのでダニーの事はちゃんと好きだっただろうし、性格的には頼られる自分というスタンスも嫌いではないのだと思う(あの友人達のタイプの違いを繋ぎ止めているのはクリスチャンのキャラクターだと思う。全部妄想だけど)ので、それがいき過ぎての共依存の一歩手前状態で一年も思い悩んでいたのでは?と考えてしまった。
そこから解放してやろうというマークやジョシュの気持ちはクリスチャンにとって良心であったと思える。えーそんな恋人別れなよ!と言ってくれるだけで何か冷静になれる。(スパイスにしてより盲目的になれる場合もあるが)
そう考えるとマークの皮を被った何者かが登場した時に「マーク、デリカシーもなくてバカだけど皮剥がれて見ず知らずの他人に被られるなんて酷いことをされる程酷い奴じゃねえのに…」と物凄く悲しい気持ちになる。全然好きじゃない人でも殺されると悲しいという、現実世界では当たり前に感じることを映画では初めて体感したかも知れない。
まあ、こんなのは作品がそういうツボに入るかって話だけど。
繰り返しになるけれど、ディレクターズカット版でここまで感じたクリスチャンたちへの思い入れが通常版になると見事にダニー視点となってしまうのが凄いと思った。


[思い出したので追記]

ペレの両親が火に包まれて死んだ、という話について「ペレの両親も祝祭の炎で死んだのでは」という考察をしている方がいたのだけれど、90年に一度の祝祭の締めくくりが9人の生贄を燃やすことであればその考察は時間の壁によって弾かれてしまう気もしてずっとモヤモヤしている。想定されるケースとしては

1.生贄を9人も必要とする(しかも外の世界からコミューンにはない欲に穢れた生贄を連れてきてより大きな罪を流す)規模の祭りが90年に一度なだけで、それより短いスパンで生贄を捧げる伝統があり、志願した。

2.何らかの掟を破り、2人して罪を流す罰として火を放たれた

3.完全な嘘

この3点くらいしか思いつかないのだけれど、やっぱり1なのかなぁ、と思っている。割と罰則に関しても穏やかorDIEという両極端な「伝統」でありそうなので2もありそうな気がするんだけど、ここまで儀式を重んじているので1なのかなぁ、みたいな。アッテストゥパンみたいに誰かが72歳を迎えるたびに行われる儀式があるのだから別の儀式で火に身を焼かれるものもあるのかもなぁ、とか考えている。

明かされてない部分を全部妄想で考えるという正解のない時間の不毛さと面白さよ。

[追記ここまで]

今回が2度目のミッドサマー鑑賞だったんだけれど、前回よりも動悸と手汗が凄くて家に帰ってからずっとYouTubeで世界一のゆっけ(割とアルコール漬けのネオ無職。言葉選びがいちいちダメな感じで、一番大事なポイントとして滅茶苦茶可愛い)さんの動画を観て「あ、俗世、羨ましいタイプの俗世、僕の知っている世界における喜びの形のひとつこと昼酒…」と心を落ち着けて寝た。

https://youtu.be/ycGc59FBL4w

特にお気に入りの回を貼る。少しでも再生回数の足しになると嬉しい。何故なら僕にとってはミッドサマーよりこっちの方がセラピーに匹敵するのだから。

おやすみ。

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