緑ヶ丘パークハイツ(2023.12.3〜12.9)

緑ヶ丘パークハイツのある緑ヶ丘は、全国津々浦々にある「緑ヶ丘」と名のつく土地の中で一番有名かも知れないと麻生は思う。
何の変哲もない平野に突如開発された43棟、1棟あたりが400戸の合計16000戸を数え、5万人もの人が暮らしている世界最大とも言われる巨大マンション群である。
学校や入院が出来る様な病院こそないものの、塾や診療所、スーパーや美容室もある暮らすのに不便のない街で都心まで最寄駅から45分という事で人口減少のこの時代において空室が殆ど出ない人気のマンション群となっている。
麻生は新卒で勤務していた高齢者施設が老朽化で閉所になり、近隣の施設からの誘いを断り心機一転でこの緑ヶ丘パークハイツ専属の訪問介護の会社へ転職を果たして2年が経っていた。
給与面が特別良い訳ではないが、それ以上に住み込み様に事務所がある7号館の2DKの部屋を2万円の家賃で借りることが出来るという条件が魅力的だった。
同じくその待遇を求めて移り住んできた同僚たちと上手く連携してシフトを組み、お互いの生活を守るために協力して働けていることに満足していた。
「麻生さん、ちょっといいですか」
7号館のエントランス横に作られた古びたウッドデッキのベンチで本を読んだりするのが麻生の気分転換であり、そうして過ごしていたところに声を掛けられ、本から顔を上げる。
この7号館に住んでいる久保ひとみさんという訪問看護の利用者の孫息子が立っていた。
「おばあさんに何かありましたか?でしたら事務所に連絡をもらえたら」
「あ、介護の事ではないんです」
麻生の言葉を遮り、久保は頭を下げる。
「お休みのところ申し訳ないんですが、少し話を聞いていただけませんでしょうか」
ひとみさんから大学を卒業したばかりで都心勤めの孫が同居してくれていると聞いたことがある。自分より10も年下に頭まで下げさせて断るほどの予定は麻生にはなかった。
「わかりました。どうぞ、座ってください」
促すと久保は麻生の隣に座った。世代も違う久保が自分にどんな話があるのか見当もつかず、麻生は居心地の悪さを感じながら彼が話はじめるのを待った。
「実は、麻生さんに7号館の管理組合に力を貸していただきたいんです」
マンションの住民が順番に担当して建物の維持修繕やルール決めを行う管理組合のことであることはすぐに解ったが、緑ヶ丘パークハイツ全体で招致された業者に提供された部屋に住む麻生には参加する責任が無く、その代わりに決定事項を守って暮らすという義務があるだけで組合の活動は無関心で自分が必要とされる理由の見当もつかなかった。
「麻生さんが管理組合に参加しない立場の方だというのは規約を読んで知っているんです。でもこれは麻生さんにも関係する事なんです。この緑ヶ丘パークハイツの修繕予算ってどういう風に決まっているかご存知ですか」
「いえ、私自身は修繕の積立も課されてませんから・・・」
「そうですよね。実は緑ヶ丘パークハイツの修繕予算というのは、43棟あるマンション全ての管理組合の理事長が集まった統括管理組合というところが分配を決定しているんです。各々の棟に、毎年軽微な保全に関する予算はつけてもらえるんですが、大規模の修繕工事は統括管理組合の承認がないと予算が降りない仕組みになっています」
「何だか国会みたいな感じですね」
相槌のつもりではあったが、思ったままを口にしてしまい麻生は自分が間抜けに思えて恥ずかしかったが、久保はそれを察するどころか「そうなんです」と何度も頷いている。
どうやらリアクションも理解の仕方としても間違ってはいない様子だった。
「その中でここを含む1から8号館エレベーターの更新工事がそろそろ必要という時期に差し掛かっているんですが、築の浅い20号館あたりから先の理事長たちは故障するまでは使い続ければいいんじゃないかという意見が強いんです。今、エレベーターの納期は資材と技術者の不足で1年以上かかる見通しで、不具合が出てしまってから1年も待つ訳にはいきません。僕の家は13階ですし、麻生さんは15階ですよね」
ベンチから座った状態で上を見上げる久保に釣られて麻生も自分の住んでいる15階を見上げる。最上階に住む麻生にはエレベーターのない生活は想像出来ない。
正月気分で新たな目標として運動不足の解消を謳い、その一環で階段を使ってみたものの片道で諦めてしまったのを思い出す。
「他の棟も大体10階建て以上ですよね。どこのマンションでもそういう可能性があると統括管理組合で主張すれば良いのではないでしょうか」
麻生の意見に久保は首を小さく横に振って答える。
「それだけでは弱いんです。高齢化はどんどん進んでいきます。診療所や麻生さんがお勤めの訪問介護の拡張もそうですが、補助手摺の設置や段差解消など複合的に、1つの計画として訴えていく必要があると考えているんです」
確かに麻生の務める訪問介護業者の利用者は年々増えており、自分たちの様な社員では足りずにパークハイツの住人からパートを募集し始めている。連携している診療所も待ち時間が凄まじく整理番号を毎日配って対応しているという話を聞く。
とは言え、自分に何か出来ることがあるとは麻生には思えなかった。
長々と話し込んでいると利用者の家族の若い男性と仲良くしていると噂になりかねない。害はないが、説明するのも面倒なのもあり、麻生は率直に尋ねた。
「それで私に何をして欲しいんですか」
「麻生さんは色んな棟の利用者さんと接しておられますよね。どの棟の利用者さんがどういう所に不便を感じておられるかを取りまとめて情報を提供して欲しいんです。もちろん個人情報ではなく、要望だけなので手間は取らせてしまいますが立場を悪くする様なことはありません」
麻生は確かにほぼ全ての棟に出入りしている。
1人に割ける時間はそう多くないが、雑談の中でそれとなく水を向けることは出来るだろう。ただそれを1日に何人にも行い久保に伝えるというのはかなりの手間に思えた。
そこまで自分が関わらなければいけないのか、エレベーターが故障し不便に見舞われる可能性を差し引いても気が重くなる。
その不便が必ず降りかかるものでないという点もまた麻生を躊躇わせる。
「どうして久保さんがそこまでするんですか」
「僕は今、勤めている会社の海外拠点を開設するプロジェクトに携わっています。若手社員なので開設されたら現地に行かされるでしょう。その状態で祖母が不便に見舞われて欲しくないし、高齢になって転居させたくないんです。祖母は僕の両親とあまり関係が良くないので頼らせるのも可哀想だというのもあります」
麻生はその境遇を聞いて久保が一流企業に勤めてバリバリと仕事をこなしているのだろうな、と想像した。
そして、久保の言う通りに不便な状態になれば老々介護や単身の高齢者世帯は転居せざるを得ないだろう。何人もの利用者の顔が思い浮かぶ。
個人として考えた際に好意的に思える利用者もいればそうでない者もいるが、彼らがいるから自分の今の生活が成り立っているのも事実である。
上手く関係性を作り上げられていない利用者にも不満を聞くことで寄り添っている印象を持って貰えれば仕事もしやすくなるかも知れない。
かなり面倒ではあるが、久保の計画が達せられようが頓挫しようが自分に何も利点がない訳でもなさそうだと麻生は結論付けた。
「わかりました。引き受けます」
麻生の返答を聞いて久保が驚きの表情を浮かべたが、それはすぐに笑顔で上書きされた。
あまり引き受けることを期待されていなかったのかも知れない。
「ありがとうございます」
心底安心した様な笑顔で握手を求められ、麻生は思わず応じてしまった。
普段触れる高齢者の手とは違い、若々しく力に溢れる筋肉質な感触に戸惑う。
意欲に満ち溢れた彼の様な人間は、自分が力を貸さなくても手を尽くして社会的な要望を探し当てるだろう。アウトソーシング出来ればラッキーくらいに思っている可能性もあるが、まっすぐな笑顔を向けられてそんなことを考えてしまう自分の捻くれた性格が嫌になる。そう思わせる気持ち良さが久保にはあるのだと麻生は感じた。
「ただし、エレベーターの更新は最優先でお願いします。私はどの棟にも高層階に利用者さんを抱えているので。それと常に情報を聞き出せる訳ではないこと、私がその情報を集めていると明かさないこと、あとは・・・また思いついたら伝えます。そちらもフォーマットの様なものがあればおばあさんに渡した連絡先に送ってください」
気恥ずかしさに周囲の目が気になるというのもあって麻生は手を離して席を立った。
「はい、お願いします!」
頭を下げる久保に会釈を返して麻生はその場を去った。
エントランスの自動ドアが開くまでの一瞬で久保の方を振り返ると、彼はまだこちらに頭を下げていた。
これが5万人が住むマンション群に大きな変化をもたらすことになるのか麻生には予想もつかなかったが、何かが動き出そうとする場面に立ち会えることが誇らしい自分がいるのも事実だった。
「更新が決まるまで壊れないでよ」
エレベーターに乗り込み、15階のボタンを押しながら麻生は小さく呟いた。

この短編はこの日記から連想して書きました。

https://oka-p.hatenablog.com/entry/2023/12/10/113043

またー。

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