挨拶回り(2023.12.31〜2024.01.06)

朝の6時半、岸は二日に一度のランニングでゆったりしたペースを維持したまま住宅街を駆けていた。
在宅勤務の運動不足の解消に始めてもう2年になろうとしていることに我ながら驚きもありつつ、定期的な発汗で肌艶もよく、風邪をひきにくくなった気もしており、習慣化出来た事を素直に喜んでいた。
同じ時間に走ることですれ違う人や見かける顔ぶれを覚え、早出のサラリーマンや犬の散歩をしている人など、挨拶もしない他人ではあるものの仲間意識を感じるまでになっていた。
少し先の家の門の前で、初老の女性が家の方へ頭を丁寧に下げて礼をし、側に停めてあるママチャリに跨る姿が見える。
(あの人、いつも丁寧だな)
岸はランニング中に度々彼女の姿を見かけていた。
季節ごとに服装は変われど、いつも同じ赤いママチャリに乗っている。
訪ねる先は同じだったり別の家だったりするが、いつもああして家の方に頭を下げている。
訪問介護や家事代行の様な仕事をされているんだろう、利用者への挨拶まで丁寧で、こちらの頭こそ下がる思いだと岸は見かける度に感心していた。
女性は赤いママチャリで岸が向かう方向へ走り去っていく。
小さくなっていくその背中を見送りながら、岸は自分も今日も頑張ろうと思いつつ女性が頭を下げていた家の前を通る際に横目で見やる。
何の変哲もない一軒家で、植え込みの植物が手入れされていて綺麗だった。
カーテンで中を窺い知る事はできないが、灯りが漏れていてこの家でも生活が始まっていることが伝わってくる。
ランニングの習慣によって朝型の生活リズムにシフト出来た今、規則正しい暮らしが伝わる光景を見かけると安心する。
気まぐれでコースを変える岸は、休憩と折り返しを兼ねて公園を経由することにした。
池を囲う800mの散歩道のある公園は東屋のついたベンチが3箇所に点在しており、休憩に丁度良かった。
岸は公園に入ったところでランニングから歩きに切り替え、入り口から一番近い東屋を目指した。
東屋が近づくにつれ、そこに赤いママチャリが停められていることに気付いた。
続いて先ほど見かけた女性がベンチに座って休んでいるのが見えてくる。
二つあるベンチの女性が座っていない方へ腰掛け、ランニングシューズの靴紐を締め直す。
その際に女性の方を窺うと、こちらを気にするでもなく、穏やかな表情で池の方を眺めながら水筒で温かいお茶か何かを飲んでいた。
微かに立ち上る湯気をぼんやりと眺めているうちに、女性がこちらの視線に気付いてしまった。
「あ、おはようございます。すいません、温かそうだなと思って」
間抜けな言い訳をしてしまう自分に恥ずかしく、耳が赤くなるのを感じる。
女性は慌てる岸を気にする様子もなく、微笑んで「おはようございます」と挨拶を返してくれる。
「あなた、よく走っているのを見かけるわ。続ける事は素敵な事ね」
優しい言葉に、岸は不審者とは思われずに済んだと安堵すると共に嬉しくなる。
「在宅業務の運動不足の解消に始めたんです。僕もあなたをよくお見かけします。朝から色んな家を回っておられる様ですが、福祉系のお仕事なんですか?」
家事代行か訪問介護か解らないが、自転車かごに広告が積まれていない事を考えるとチラシ配りではないだろう。踏み込んだ質問かも知れないが、女性の朗らかな雰囲気に安心して岸は尋ねた。
女性は一瞬キョトンとした表情を見せたものの、水筒の残りを飲み干してから変わらぬ口調で答えた。
「いえいえ、仕事なんて立派なものじゃなくてちょっとした趣味よ」
趣味で人の家々を巡るということのイメージが湧かないが、趣味仲間の家を朝のサイクリングがてら尋ねているのだろうか。
岸が考えていると、女性は続けた。
「私ね、家からオーラが見えるのよ」
「オーラ、ですか」
思考が追いつかず復唱するだけになった岸を気にすることもなく、女性は話を続ける。
「この辺りは幸せなオーラを纏ったお家が多くてね、だから私、そういう家に呪いをかけて回っているのよ」
変わらず穏やかな微笑みを湛えたまま、呪いと口にされ岸は唖然とする。
「オーラってね、風船みたいなものなのよ。だから呪いでその風船に穴を開けて、中に溜まった幸せを抜いて回っているのよ」
水筒をリュックに仕舞い、立ち上がって自転車のカゴに入れながら女性はそう説明した。
こちらを向き直り、両手で何か印のようなものを結んでみせる。
「こうやって呪いをかけてね、幸せのオーラに穴が開いたら神様にこうして頭を下げてお礼をするのよ。吹き出してきた幸せを浴びるとね、元気になるわ」
彼女の言う通りなのだとしたら、自分が見かけていた礼をする仕草は呪いが成就したという事なのだろう。
岸はこれまで見かけて感じていた親近感や好感が冷たい恐怖心に変わるのを感じていた。
一気に身体が寒くなってくる。
まるで説明として手本を見せられたことによって自身にも呪いが掛かってしまった様な気になってしまう。
「じゃあ行くわね、ランニング頑張ってね」
女性は終始微笑みを絶やさず、穏やかな口調で赤いママチャリに乗ってゆっくり走り去った。
姿が見えなくなって心拍数が上がり、冷や汗が吹き出し、息苦しい。
強烈な悪意から解放され、フラフラと立ち上がり、もう彼女がいないとしてもここから離れたい一心で岸は女性と反対側に向かおうとして足を止めた。
もし、あの女性がこの公園を一周していたらまた鉢合わせてしまう事になる。
岸は女性が走り去った方へ向き直り、震える身体を引きずる様にして公園を出た。
先ほど女性が頭を下げていた家の前を通る時、行きに感じた様な明るさは感じられなくなっていた。
彼女の不気味な話を間に受けているだけだと自分に言い聞かせてもその印象は変わらず、なるべくそちらを見ない様に前を通り過ぎようとした。
家が壁になり吹くはずのない風に頬を撫でられた気がして、思わず吹き出してしまった幸せのオーラを想像してしまい、岸は力の入らない手足で踠くように走って逃げ出した。
家の近くまで戻って来た頃には7時を過ぎたのだろう、通りに人が増えてきていた。
気怠げに朝練に向かう高校生や眠そうなサラリーマンとすれ違うと少しずつ不安が拭われ、身体に力が入る様になってきた。
岸は、あの女性もスピリチュアルなものに傾倒して少しおかしくなってしまっただけなのだろうと自分に思い込ませながら角を曲がった。
数十メートル先にあの赤いママチャリが停まっているのに気付いて岸は足を止めた。
取り戻したはずの力が抜け、全身の血が凍るような感覚に貫かれた岸の目に映ったもの。
それは朝日を背に浴び、自分の自宅に礼をしている女性の姿だった。

この短編かこの日記から連想して書きました。

https://oka-p.hatenablog.com/entry/2024/01/06/184140

またー。

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