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言の葉レガート

 皆さんこんばんは。言の葉レガート、のお時間になりました。
じめじめとした天気が続いておりますが、体調など崩しておりませんでしょうか。私はこの天気によって、頭が重く全身だるい日々を過ごしていました……。
そんな時こそ、好きな文学、あるいは好きな音楽に身を寄せて、体と心を癒やしてみるのも良いかもしれませんね。では今夜も、皆さんの文学あるいは音楽との出会いをお手伝いさせていただければと思います。

この記事は、「文学×音楽」をテーマに、文学作品とそれに関連した音楽を結び、ご紹介することで、皆さんの「本との出会い」「作品との出会い」をお助けするものです。
筆者の感覚・視点・感性による紹介となりますのをご了承ください。なお、文学のほうも音楽のほうも最大の尊敬を込めて語っております。貶める意図は全くございません。また、特定の宗教や団体を貶める意図も全くございません。

今月は、初回特別放送、ということで、6月にゆかりのある作家さんの作品と音楽を、二週連続で紹介させていただいております。先週の言の葉レガート①では、
太宰治『走れメロス』 × 福島弘和 交響的詩曲「走れメロス」
を紹介させていただきました。いかがだったでしょうか?文学作品としての『走れメロス』の方は国語の教科書にも載っているほどなので、身構えることなく作品世界を味わうことができるかと思います。
 さて、今週も太宰治の作品と音楽とを結びつけて紹介させていただきます。
 第2回、文学×音楽ラジオ「言の葉レガート」、紹介作品は――太宰治『駈け込み訴え』×すこやか大聖堂「ジウダス(Judas)」

 『駈け込み訴え』、私が聞くところによると、とても人気のある作品だそうですね。皆さんは既にお読みになったことのある作品かもしれません(恥ずかしながら、私は一か月ほど前に初めて拝読いたしました(苦笑)。お薦めしてくれた友達、ありがとう!)。
イエス・キリストが十字架にかけられて処刑されてしまう、そのきっかけを作ったのがこの作品の主人公「(イスカリオテの)ユダ」。太宰治はそんな『新約聖書』でのお話をもとに、この作品を口述したそうです。つまりは二次創作的作品なのであり、実際にユダがこの作品の通りの人物であるかは不明ですが、だからこそ私たちの想像の余地があり、解像度が上がるという魅力がありますよね。
第三者の視点ではなく、最初から最後までユダが語り続けるこの作品では、ユダがキリスト(主)のことをどう思っていたのか……いや、どう“想って”いたのかの心の動きを感じることができるかと思います。

そんな『駈け込み訴え』と結びつく音楽は、すこやか大聖堂作曲の、KAITO_V3歌唱によるボカロ曲、「ジウダス(Judas)」(Judasは「ユダ」の英字表記ですが、あえて「ジウダス」と読ませているようです)。よって先週に引き続き、題名から結びつきが想起される曲となっています。ダウナーな曲調と淡々としたKAITOの歌い方によって、「ユダ」の新しい人物像を妄想することができそうです。

 私が今回、『駈け込み訴え』と「ジウダス(Judas)」とを結びつけた理由は、「ジウダス(Judas)」の歌詞と『駈け込み訴え』とでリンクする部分が多くあったからです。私自身、『駈け込み訴え』を読んだ後に「ジウダス(Judas)」を聴くと、「うわあぁ、これってまさにユダの心情じゃん……」と痺れてしまいました。中でもお気に入りの歌詞を二つ、以下に引用させていただきます。

  称えりゃいつか天が味方してくれんの
  祈りゃ踊りゃそのうち腹が膨れんの

この部分は、『駈け込み訴え』の

  ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。

を想起させるんですよね……。歌い方も相まって、作品においてユダが天国も神も信じず、信心深い他の弟子たちの様子を見て上記のように「馬鹿な奴らだ」と嘲笑しているのが妄想できてしまいます。そして、私が極めつけだと思っているのが、一番最後の歌詞、

  愛しい主よ

これです!!この部分、「いとしいしゅよ」と読むのではなく、「にくいジーザス」と読ませているんです。そして「愛しい(にくい)」の部分は三度も繰り返されます……。もうこれって、『駈け込み訴え』でのユダの心情そのままだと思うんですよ。
『駈け込み訴え』は、ユダの心の激しい動きがこちらにも伝わってくるほど緻密に描写されているのですが、ユダの心情の中核をなすのが、主に対する「愛しさ」と「憎さ」だと私は思っています(「憎い」という言葉自体は『駈け込み訴え』作中にはあまり見られないですが、描かれるユダの言葉の端々ににじみ出ているようにも思えました)。
 そんなユダの心情をはっきりと表現したのが「愛しい(にくい)主(ジー)よ(ザス)」だと思うんです。
 ……とこんな感じで、「ジウダス(Judas)」の歌詞は読ませ方を工夫することで、『駈け込み訴え』とリンクする印象を受ける部分が沢山あるのです。『駈け込み訴え』を読んだことがある方はぜひ聴いて、ユダへの解像度を上げたり、「この歌詞って作中のあの部分を連想させるじゃん……」と痺れていただきたいです(笑)。
 また、「ジウダス(Judas)」を聴いたことがあって『駈け込み訴え』を読んだことがない、という方は、『駈け込み訴え』を読むことで「ジウダス(Judas)」との印象の違いを体験してみてほしいです。

 
 申し訳ありません、私がボカロ好き(KAITO推し)であるばかりに、マシンガントークになってしまいました……。でも、それほどまでに「刺さった」作品であり曲だったということでお許しください。

今夜も、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。今日は6月30日。6月最後の日となっております。1年を半分走り切りましたね。皆さん、大変お疲れ様でございました。
明日からは1年の折り返し、一緒に頑張ってまいりましょう!

 では、また次回に。
 次回以降の放送は、第3日曜日の20時からを予定しておりますので、ご注意くださいね。

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