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全感覚祭

11/13 深夜の渋谷で開催された全感覚祭に行ってきた。ほんの数日前までGEZANというバンド名は聴いたことあるなぁというくらいで、全感覚祭の存在は知らなかった。STUTSとtohjiとKID FRESINOタダ観れるラッキーくらいに思っていたが、この祭の趣旨を知るとそんな軽い気持ちでいくものではないなと思い改める。もともと、千葉で開催される予定だったが台風により無くなり、それから急遽開催されることが決まったようだ。その力をすげえなと思い、ただライブを見るだけじゃない何かが観れるような感じがした。

翻って、自分個人の話になるが、あるコンプレックスがある。オールナイトのライブを見たことがない、夜通し音に身を任せたことがない。もっとも音楽が輝く瞬間に立ち会えていないのではないかというちょっとしたコンプレックスがある。オールナイトのイベントに行くなんて簡単なことにも思えるが、生来明日を考える性分だ。仕事ある身、次の日への影響を考えて二の足を踏むこともある。

ただ、その二の足を進ませる程のラインナップと何かヤバいものが見れるだろうという気持ちに駆られ、踊り明かすために深夜の渋谷へ向かった。


開演30分前、o-eastの周りには深夜とは思えない程の多くの人がIDチェックに列をなしていた。長いIDチェックを通り抜け、o-eastに入場出来たのは12時5分過ぎ。ライブはもう始まっている。

ステージにカネコアヤノが照らされている。歌っている。客席の自分達は、ある人は日々の鬱憤をある人はやるせなさを、孤独を、暴れたいという気持ちを、楽しみたいという気持ちを、共通しないが確かな熱量を持ち寄って、ステージを見ている。カネコアヤノが叫んでいる。照らされる光の方へグッと気持ちを持っていかれる。内的で静かだが、確かな祭の始まりを感じた。

終わるや否や始まった祭囃子。切腹ピストルズ。トラップのハイハットかと思う程の聴いたことのない鐘の連打。響く太鼓。歪んだ三味線。気持ちを高ぶらせる笛。もう祭がトップギアだ。原初の祭りはこうだったのかもしれない。天災への怒りと祈りが重なり、行き場のない感情が暴力的な音になっている。日本に数多ある祭の起こりも大衆の鬱屈としたエネルギーとそれを起爆させる一握りの阿呆が生み出したのでは?音に身を任せ、僕も阿呆になる。

tohjiがさらに続く。ただ阿呆になる。オートチューンとトラップのビートに乗せて、ただ倍速で体を揺らす。今じゃなきゃ聴けない音楽、今しか抱いていない気持ちで音を感じる。

神々しくすら思えたKID FRESINO。スムーズなのに耳に残るリズムとフローとリリック。上げるとこと落とすとこの緩急に酔いしれた。

この後、首謀者のGEZANの出番だった訳だが、この時点で僕は力尽きかけていた。切腹ピストルズでエネルギーを使い過ぎた。そんなことを思いながら、ただスゲエことをしたスゲエヤツがスゲエライブをしているという感覚は残っているが、壁にもたれながらその場面を見つめていた。

最後に見たのは折坂悠太。日常の景色が垣間見えながら、そのエネルギーは祭のそれで、この祭りが終わりを迎えても、その熱量は日常に残り続けるように願いを受け取った気がする。

投げ銭を手渡し、帰途に着いた。

ーーー

夜はどうしようもなく孤独で不安だ。一人でなくても、誰かといても孤独を感じることもあれば、誰かがいるからこそ孤独を感じることもある。繁華街、ホテルとライブハウスがひしめく渋谷道玄坂には夜中にも関わらずたくさんの人がいた、眩く街が照らされていた。一人でいる者、友達といる者、恋人といるもの、一夜限りの人といるもの、色んな人がいたが、みんな孤独を持ち寄っているように見えた。深夜に音に引き寄せられて集まった僕らは、孤独を不安を埋めたかったんじゃないか。これは僕の色眼鏡のせいだろうか?いや、そうとも言い切れないと思う。

音に身を任せて阿呆になること、切り取られた幸福な日常に想いを馳せること。音があるから少しだけ繋がれた気がして、孤独を分け合えた気がする。そんな一瞬のために集まったのではないか。日本古来からある祭も同じように、どうしようもない孤独不安を持ち寄って爆発させたんじゃないか。

技術は発展したって、孤独や不安は形を変え忍び寄ってきて、耐え難い夜を生み出す。その時に、みんなで孤独を持ち寄って踊り明かすことで、乗り越える。乗り越えた夜があったことを思い出す。

あの瞬間集まった人々は、孤独に打ち克った非日常を抱えてまたそれぞれの日常を進む。孤独には変わらない。それでも、一瞬の昂る感情にまた会える時があると思えばきっと大丈夫。

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