Savoring が足りない
枝葉を切り捨てて生きてきた。つまり、要点しか記憶しない。細かいところはすっとばす。
元々、要約することとか、知っている解法を適用して解くことは得意だったし、ある意味では長所だとも思う。
だが、要約で辿り着けるところの限界を感じたり、そもそも楽しくないなと感じるようになっている。
考えに深みがないように思うし、芸術作品(そんな大袈裟ではなく作品一般か)に触れた時にも一部しか分かってないかと思うと損したようにも思う。
何とかしたいと思ってる。
Savoring
自粛期間中にこんなオンライン講座を受けている。Well-beingつまり善く生きること、幸福とは何かについての講義だ。
講義で言われていたことをざっくりまとめると(またまとめてる)、
一般的に幸福の要因と考えられている富、名声、真実の愛といったものは本当はWell-beingと相関がない。
Social connection, kindness, excersise, savoring, meditation, sleep, gratitudeにWell-beingと相関があることが紹介されている。
要因のなかに耳慣れないSavoringという言葉がある。この言葉は「存分に味わうこと」を意味する。
なるほど。これはまさに枝葉を切り捨てないこと、自分に足りないことだな。
なぜSavoringできないか
Savoringを避ける理由として次の二つくらいが思い浮かんだ。
めんどくさがり
自分は生来のめんどくさがりである。何となく分かったらもういいかなと思いがちである。問題集を解いていて、こう解けばいいかと分かると手を動かすのがめんどくさく、もういっかと思って止めることもある。
こんなめんどくさがりな性格が、幹を理解したように思えたら、枝葉はどうでもよく思えて切り捨て、Savoringを妨げることに繋がっているんじゃないかと思う。
参照可能な世界に慣れてしまっている
分からないことがあっても、ググってみればある程度答えや解法が見つかってしまう世の中だ。情報へアクセスするパスさえ知っていれば頭の中にインプットしなくても良いように思える。
こんな状況によって、枝葉を覚えることはむしろ非効率なように思える。そんなことも原因のように思う。
Savoringを妨げるのはこんな環境要因もあると思う。
Savoringするために
上記のような理由があったとして、それを乗り越えてSavoringするためにはどうしたらいいだろう。
一つの考え方として、枝葉についての捉え方を変えるというのが挙げられそうだ。枝葉を大切に思わない気持ちを変えようという方法だ。
ある場面において枝葉に思えるモノは果たして本当に枝葉だろうか?
枝葉と思い込んでいるものの先には更に細かい分岐がある。そしてその先にもまた分岐がある。スケールを変えて見てみれば、その枝葉でさえ、1人の人間が一生かかっても理解しきれない多様な世界が広がってる。
幹と枝葉に切り分けて、枝葉を捨ててしまう姿勢は世界の複雑性、多様性を舐めてしまっているとことに起因してるのかもしれない。
枝葉の豊かに敬意を払う。この視点によって、向き合い方がかなり変わりそうな気がする。
敬意を払って、分かった気にならないでもう少し調べてみる。それが一つの正解かもしれない。そして、多分それは楽しいことなんだと思う。(だからこそWell-beingの要素になっているんだろう。)
ご飯を噛み締める
枝葉と思うもののその先に広がる世界に思いを馳せることで、「よし、幹の部分は理解したし後はいいや」という気持ちを捨てる。丁寧に勉強していこうと思うし、ご飯も一口一口噛み締めながら食べようと思う。
今日思ってることはそんなとこです。
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