ウケる/ウケたい

僕にも使いたくない言葉というのがたくさんある。

脳のどこかに分厚いフィルターが挟まっているように言葉が出なかったり、聴くだけで眉間がグググっとなってしまう。

なぜある言葉を発したくないのか。そこには何か重要な言葉がある気がするから考えてみたかったので、今日はその中の一つを考えてみる。

ウケる

ウケるという言葉がニガテだ。自分で発することはないし、聴くのもちょっと嫌だ。だけど気づいた。

ウケるという言葉は使いたくないけど、ウケたいという言葉は全然使えることに。

ここには何かあるだろう。

ウケるという言葉にはどこか見下しの感情ないしは興味の薄さがあるような気がしている。

笑いの対象になっている人(発信者と言うことにしよう)は笑わせたいという意志がないのに、その人のミスであったり、普通の言動をあげつらう面がウケるにはあるのではないかと思う。

受けると同音でありながら、それは発信者が意志を持って受信者に投げたのを受けたのではなくて、届けようとしなかったことを勝手に受信者が受け取っている。そこになんか違うなぁという気持ちがある。

自分が発信者の立場に立った時、ウケると言われると寂しくなってしまうから、この言葉ニガテなんだろうな。

ウケたい

一方、ウケたいという言葉は全然違う。

この言葉は発信者側が使う言葉であって、そこには発信者の明確な意思が存在する。
発信者としての自分が使う時、ウケたいという気持ちには嘘がない。そこには受信者に受け取って欲しいという気持ちが存在する。

そして多分、自分にとってウケたいという気持ちはとても強く、確かにあると感じられる。

だから、ウケたいという言葉は何も気にせず使える。

分かった。
ウケる/ウケたいの対立じゃないな。受信側としてのウケるは使いたくなくて、発信側としてのウケるは使えるんだ。

ツッコまれたくないという気持ち

話が飛びますが、自分はツッコまれたくないという気持ちがとてもある。
それはウケたと思われたくない気持ちと繋がっているような気がする。

ツッコまれる状況とはつまり受信側からすると発信側に間違いがあるということだ。
その時、プライドの高い自分は、そのツッコミが腹立たしく感じたり、伝わらなかったことを寂しく思ったりする。
また、ツッコまれたくないという気持ちはツッコむ側に回らなくてはならないという気持ちにもさせる。

ウケたいけどウケられたくない
ツッコまれたくないけどツッコミたい

いやぁ、どこまでもめんどくさい人間だねぇ…

そんなもんだ

数々のお笑い賞レース、大喜利、すべらない話
そこでは明確にウケたいという気持ちを持った言葉が吐き出される
ウケをとることを職として磨いた人たちの場だ。
覚悟があるからウケたいという気持ちをそのまま届けて、笑いを生むことができる。

一方、フツーの自分たちはどうだろうか。
ウケたいと力むとスベる。
意図していないところがウケる。
そんなもんだ。

そんなもんだし、むしろ会話はウケることに広がりがあって、そこに面白さがあるはずなのにねぇ。

頭では分かっているけど体にはなじんでいない。
もう少し馴染んできたら、ウケるという言葉とも、ツッコまれることとも、いいねが欲しいという気持ちとも良いお付き合いができるんじゃないかと思うんだけどなぁ。

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