「わかりやすく書け」という謎めいた指摘について

先日私の投稿に対して、「もっと誰もがわかるように明晰判明に書け」という指摘を受けました。

ドゥルーズの『ベルクソニズム』の観点から、そこで扱っている問題に迫る投稿でしたので、通常のものより分かりにくい投稿だった自覚はあります。

ですが、なぜ「分かりやすく書け」などという指摘を受けたのかは、ちんぷんかんぷんです。
(これは私が「簡単に書けていた!」という意味ではない)

そもそも、この指摘のされ方自体が非常に回りくどかったので、「ハッキリ明晰に指摘されたらどうですか?」と返答したところ、「頑張れ!」というまたもや謎コメントがきました。

まさか、「ハッキリ(簡単に)指摘しろ」と言われたから、「頑張れ!」と返事したのでしょうか?

だとすれば、もう少し言葉の使い方を頑張った方がいいとも思いますが、それはさておき。

まず、簡単に書くというのは、物事の事象をかなり粗雑にするということです。

例えば、「ドストエフスキーの『罪と罰』についてどう思いますか?」と聞かれた際に、「人間の本質が書かれてあった!」という回答は、簡単な回答であるだけに、粗雑化され過ぎてて、どの文学にでも言えそうな話です。
(実際、「人間とは?」問題を扱ってる文学ですので間違いではありません)

プラトンの『ゴルギアス』にも似たような話が出てきます。

「私はどんな問題に対して、簡単に回答することもできる!」と言うゴルギアスは、ソクラテスのふっかける問題に対して全部、YESかNOだけで答えるお笑いを描いてくれています。

なので、簡単にすれば簡単にするだけ、こぼれ落ちるものが沢山あると言うのは、ご理解して貰えるでしょう。

しかし、それでも問題や事象を簡単にするという行いは必要なものでもあります。
この点を批判する気は毛頭ないです。

複雑な事柄を理解・勉強するには、まず簡単なところから入っていくしかありません。
なので物事を「簡単にする・粗雑化する」というのは決して、悪いことなんかじゃありません。

じゃあ、物事を複雑に書くのは悪いこと(わざわざ指摘を受けるようなこと)なのか?

当然そんなこともありません。
難しく書くというのは、問題に対してそれだけ深く、解像度の高いことを考察しているのですから。

主にフランス現代思想と呼ばれる哲学は複雑難解な哲学とされていますが、

「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。」
(千葉雅也『現代思想入門』12頁引用)

なので、簡単なものもあれば、難しいものもある。
入門者のために簡単なものもあれば、より深い次元で物事を考えたい人のために複雑なものもあればいい。

その両義性が大事なことだと思います。

よって、「もっと誰もが分かるように明晰判明に書け」という指摘に対しては、「なぜ?」の一言です。

僕の記事に対する内容の矛盾や誤解に対しての指摘なら大歓迎です。
「理解不足でした、勉強になりました。」ってだけです。
(反論する場合もあるでしょうが)

若しくは、この問題に対して、もう少し分かりやすか書いて下さいというリクエストの形でも大歓迎です。

有料記事でしたので、「高いよ!」というご指摘でも構いません。
現在、価格については相場を検討中でしたので、貴重なお声です。

しかし、「誰もが簡単に理解できる様にその理由を明晰に説明すれば良い」などという、上から目線の指摘に対しては、「知らんがな、じゃあ簡単に説明してくれてる人を探せや」って話です。

「問題」に対するアプローチは、難しさの強度も含め多角的にあった方がいいはずです。
その理由は、今話しましたね。

以上、前々から書いてみたかった「わかりやすい・わかりにくい」に関する私の考えでした。

先述した『現代思想入門』はもちろんのこと、レジー著『ファスト教養』や、鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』などが、この手の問題と関わっている本なのでオススメです!

と、読書アカウントらしく締めくくりたいと思います笑

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