つながり、の解像度をあげていきたい。
つながりとは何を表現するワードなのかを考えてみる。
つながりをつくるとは?
最近、話題にあがることが増えた「つながり」というワードの解像度を上げていきたい。そうでないと単なるつながりの話として葬られてしまう生活問題が少なくない。
つながりを作るというワードで語られている支援とは生きる力(意欲やスキルなど多様で複雑な構造を持つ)を育む支援のひとつであり、最初の一歩に過ぎない。
最近、僕はそれらをドラえもんと四次元ポケットの関係性で説明してりしている。つまり、のび太を幸せにしているのは、四次元ポケットなのか、ドラえもん本体なのか?という問いだ。
食の共有や子育て、看病など探索や応答を通じた共に生きるプロセスの中で、結果として信頼と集団は形成され、自身も成長していく。もちろんそのためには数えられない個人と社会関係の調整が自信または他者によって行われる。
この結果として形成された集団の存在をつながりというならば、繋がりを作るという言葉はかなり漠然とした現象を観察にしているに過ぎないだろう。少なくとも臨床家にとって現象を表現する言葉以外に使い物にならないのはそのためだと思う。なぜなら説明はできるけど、介入手段として使えないからだ。まさに社会学や公衆衛生学的ワードという印象だ。
つながり搾取に気をつけて
つながり、というワードのポジティブな側面を考えてみる。それは、つながりが大事と誰かが言うと実に多くの人が共感、あるいは逆の反応を示していることに気が付く。少なくともほとんどの人が反応してくれるし、つながりとは何でしょうかと聞き返す人は少ない。
それは、多くの人たちがつながりを実感できる体験をしていることだ。この現象はつながりというワードが言いたい現象は、我々が学習しないと理解できないものではなく、人間が原始的にちかい時点から持っている感覚である可能性を示している。
このことから、つながりを作るのは専門家に限らないということになるし、特に何らかのスキルが必要ということでもないことになるだろう。それでは、現在つながりをつくる専門家たちを自称している人たちは何をしていることになるのだろうか。ひとつまちがえば、意図せずにつながりをつくるハードルを引き上げてしまったり、ひとびとからつながりをつくるという活動を搾取しかねないということになる。
やっぱりネガティブな発言になった・・・。
最後に強引にポジティブに言えば、みんな!つながりの専門家を自称する人たちを無視して!かな。特につながりは健康にいいとか言う人たちに気をつけて!
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