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生きるを支える〜出会いと学び〜1

はじめに

 正直に言うと、2年前から執筆を続けてきた文章が突然に発表の場を失ってしまいました。せっかく書いたのに、日の目を見ないというのも寂しいので、困り果てた結果、こちら(note)でみなさんにご報告することにいたしました。内容は私の個人的なストーリーで、ごく一部ですが、これまでにも書いた内容も含まれています。

私のこれまでの歩みを総括するものですから、個人的にはとても思い入れのあるものですが、みなさんにとってはあまり関心の少ないものかもしれません。

それでも、地域を志す方々にはそれなりに共感してもらえるものと考えております。特に地域を志す専門職やリーダーたち。もちろん、医師をはじめとするヘルスケアやソーシャルケアの専門職には言語化しきれていない経験知が散財していると思います。

また、私の講演を聞いてくださって、こいつはいったいどこからきたのか?なぜ医者なのに地域やソーシャルワークなどと言い出したのだろうか?と、ご関心を持ってくださる方にとっては、その回答のひとつになるかもしれません。

数回の連載として発表していきますので、ご関心のある方はお付き合いください。


消せない失敗と解決できない問題

 医師国家試験に合格し、最初に就職したのは、母校の大学病院の分院だ。私の出身地にその病院があったことも最初の就職先に選んだ理由だ。当時、内分泌代謝学、血液内科学、神経内科学の三分野が同居していたこの診療科は、一般内科(現在は神経内科が独立し糖尿病血液内科へ名称変更)と呼ばれていた。つまり、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科以外の広い内科領域を対象とする当時の一般的な大学病院らしからぬ医局だった。当時は膠原病を診療される医師も所属していた。当時は研修プログラムも満足にない時代で、研修医は主に造血器腫瘍を患う患者さんを担当することになっていた。
 私は腫瘍内科に興味があったので、最初はあまり抵抗を感じなかった。しかし、当時、著者が勤務していた病院には、骨髄移植を行うことができる施設や設備はなく、骨髄移植が必要となった際には、それを行うことができる埼玉県内外の病院へ紹介することになっていた。当時、造血器腫瘍の完治を目指すには骨髄移植が必要不可欠であり、血液内科医としてのキャリアを選ぶとしたら、移植のできない施設での研修は専門医としての未来がないことを意味していた。
当時、働いていた病院の役割は、化学療法だけで治療可能な造血器腫瘍か、骨髄移植を行うための前治療として化学療法を行うか、あるいは骨髄移植の適応から外れてしまった患者の姑息的な治療かのいずれかであった。
 しかし、当時の私はやりがいを持って、日々繰り返される化学療法と、その後に待っている骨髄抑制に伴う感染症を含む合併症などの治療、なにより苦しい治療を受ける患者さんに向き合う日々を送っていた。将来のキャリアパスに悩むよりも、目の前の造血器腫瘍を患う患者さんや治療と向き合いたいと感じていた。
 ある日、急性リンパ性白血病を発症した四十代の男性が入院してきた。私が担当することとなった。当時、一般的に急性リンパ性白血病の治療は難しく、その病名を聞いただけで、研修医だった私は尻込みをした。さらに、専門医ではなかった私は、血液専門医の指導医の指導を受けながら治療を始めることとなった。
 白血病の治癒のためには、完全に白血病細胞を根絶させること(Total cell kill)が必須とされている。その為、強力な抗がん剤を複数組み合わせて用いられるため、必ず骨髄抑制が起こる。骨髄内の白血病細胞に対して抗がん剤を用いて破壊し、白血病細胞より早く回復して来る正常細胞が立ち上がってきたら、直ちに次の化学療法を開始する。これらを繰り返すことで、白血病細胞を骨髄から段階的に減らして、寛解を目指していくのが白血病における化学療法の基本的な考え方だ。従って、化学療法のクール終了後の感染症をはじめとする合併症の管理は極めて重要だ。すなわち、化学療法後に合併症が発症すると次の治療が遅れてしまい、せっかく破壊した白血病細胞が再び増え始めてしまうからだ。
 寛解を目指す寛解導入療法が開始されると、比較的スムーズに最初の寛解が得られた。しかし、その後の寛解の維持を目的とする化学療法(地固め療法や維持療法)と続けた。しかし、しばらくすると、検査結果に異変が見られた。予想より、化学療法後の白血球数増加のスピードが早いことに気づいた。直ちに骨髄液を調べると、消えたはずの白血病細胞の増加が確認された。
 指導医と一緒に患者と妻へ、病状の報告を行った。寛解など病状がよくなった時の病状説明は大変気分の良いものだが、悪くなった時の説明ほど難しく、一言一言の言葉に注意が求められるものはない。患者も肩を落とし、妻も隣で泣きながら話を聞いてくださった。
 その後、病状の経過は一貫して悪化を続けていった。化学療法を追加しても、白血病細胞が末梢血で消失と出現を繰り返した。当然、免疫力も低下するため、それまでほとんど見られなかった肺炎を発症した。化学療法は中止を余儀なくされ、免疫力が低下した状態での肺炎治療は、極めて困難な治療だった。さらに、この間も白血病細胞が増えてくるという最悪な状況に至った。

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