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なぜ私が「地域をまきこむ」ではなく「地域にまきこまれる」という表現を使っているのか?

日頃、疲弊してケアを渇望する専門職らにとって、自身もケアや承認を受ける場は必要だとは思います。それならそうと言えばいいのにといつも思います。多くの専門職はケアを受けることもヘタをすると恥とさえ思っているので、たいていは学習の場という表現で開催されます。

最近は学会もそういう雰囲気になりつつあります。

いくらまちづくりや、地域に出ようと声を張り上げても、自分たちが自らと向き合い、地域の実際を知らなければ、はじまることさえないと思うのです。

とかく専門職らは自分自身の王国を作り、結果、コロニー化することが少なくありません。なぜ市民を信頼し、自らを地域に委ねることができないのか?そうして「地域にまきこまれる」ことをしなければ、本当に市民が願っていることや、潜在する支援が必要な課題など見えてこないと思うのです。

独りよがりで変わった取り組みばかり目立つ、そしてその取り組みの写真の中心には必ず自分が居たりするのはそういうことなのだと思っています。さながら、撮れ高を意識するメディアのようです。

たしかにそういう取り組みはメディアには受けますが、そういうことが目的ではないと信じています。

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