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言葉ではこぼれ落ちるほど現実は複雑怪奇で面白い、現実ではもの足りないほど言葉は広大無辺で面白い B

広大無辺・・・広くて大きく、はてしのないこと。広くて限りのないこと。

いや調べて出てきたのが広大無辺だったんですよね。複雑怪奇と表現してしまった以上、四字熟語でカウンターパートを構成するのがいいかなと感じています。

「言葉」を表現するときに、果てしなく広がっている様子を言いたかったのですが、広大無辺というのがぴったりでした。これが今日の学び。

今日は抽象的な気分のようです。思いつく言葉のままに表現しましょう。

言葉ではこぼれ落ちるほど現実は複雑怪奇で面白い

例えば、身の回りのことを表現してみましょう。

「散らかった部屋」という表現をしてみます。

今私の部屋は散らかっているのですが、この散らかった部屋という言葉は現実世界を表現した瞬間から、様々な物事を捨象しています。

どのように捨象しているのか?例をあげれば、「どんなものが散らかっているのか」とかです。

私の周りにおいてはワインの瓶や酒の空き缶が散らかっているのですが、ただ「散らかった部屋」という表現においてはその物事は捨象され、表現されていません。

「散らかった部屋」という表現からは、研究資料や書籍が散乱している様を想像もできますし、洗濯物や日用品が散らかっている可能性もあります。(そしてそれは少しあっている)

「散らかった部屋」という表現から私の人間性を知ろうとするのであれば、私が現在いる「散らかった部屋」をありのままに表現しなければなりません。

この点、しっかり物事を表現しようとするのであれば「言葉ではこぼれ落ちるほど現実は複雑怪奇で面白い」と感じています。

また言葉に即して言えば、写真で伝えた方がより的確に3Dの物事は伝えることができます。(写真も人の内面等完全に映し出せるわけではないので、不完全な表現手法なのですが・・・)

現実ではもの足りないほど言葉は広大無辺で面白い

一方で、表現手段というのは見方を変えれば無限大の可能性をもっていると感じます。同様に「散らかった部屋」で考えてみましょう。

「散らかった部屋」でイメージするものはなんでしょうか。恐らく100人いれば100通りの散らかった部屋のイメージがでてくると考えています。

当然、「散らかった部屋」と表現しているのである程度共通点はあると思います。例えば、絶対に「ものがある」部屋を想像している可能性は高いです。(「散らかった部屋」を頭の中を比喩する表現として受け取って、頭の中に概念が散らかっている可能性はあり、そんなやつまじで面白いので連絡ください(笑)。)

しかしながら、誰一人としてぴったり同じ「散らかった部屋」を想像している可能性は極めて低いと考えています。

それはなぜなら、一人一人絶対にすべて同じ経験を踏んでいるわけではないからです。

例えば、「散らかった」という概念を想起するにあたって、酒の空き缶のみを散らかす人であればまっさきに思いつく可能性が高いのは「酒の空き缶が散らかった」状態となります。

他にも、子供のときおもちゃを散らかす経験のみあればまっさきに散らかったという表現で思いつくのは「おもちゃが散らかった」状態になると考えられます。

また同じ散らかった部屋にいる夫婦にしても、目線が異なる可能性があります。この「目線」という言葉の通り身長差によってフューチャーする散乱物がかわってくる可能性があります。

終わりに ~散らかった思考を整理しながら~

言いたかったことは一つなんですよね。言葉ではこぼれ落ちるほど現実は複雑怪奇で面白い、現実ではもの足りないほど言葉は広大無辺で面白い。

真実はいつも一つ。これは客観的な認識のことを指しているのでしょうが、見方を変えれば人々の認識が完全に一致するとは考えにくいです。

「我々の認識とこの世界の常識が綺麗に嚙み合うことなどないとゆめゆめ忘れるな」

メイドラゴンのファフニールの言葉です。

だからこそそこをすり合わせるのが楽しいし、嚙み合っていない認識によって我々は想像の翼を広げることができるのかもしれません。

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