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幽霊はいるかもしれない A

「ボクらの時代」で、いとうせいこうさんが話していたものの中で、自らの腰痛を、犬にとりつかれているという風に表現していたものがあった。映像はどこかにあったら見てほしいのだが、内容的には「嫌なやつがいたら、嚙みついてしまえというくらい飼いならしている」とかかなり個人的に面白かった。

幽霊は、未だその存在を確認されていない。確認されていたらちょっと教えて欲しい。ただその存在をないと言ってしまうのは面白味にかける。今日の主張はこれにつきる。何故「幽霊はいるかもしれない」と思うことが面白味につながるのか、興味のある人々だけ先に進んでくれればいいと思う。

「幽霊」いないと言ってしまうこと

割と科学的なものを宗教として信じているので、現実に存在するものしか信じないタイプである。それでもなお、幽霊はいるかもしれないと考えた方が面白いと感じている。それは「想像力」とも言い換えられるであろうか。幽霊という存在は、かなり興味深いのである。

幽霊はいつ出てくるだろうか。個人的には、夜、薄暗い場所で出てくるイメージがある。そんなところで出てくる幽霊は人間の「怖い」という感情を象徴しているようにも感じる。次の項目で少し「幽霊」を使って文章を書いてみよう。

「幽霊」は人の思いかもしれない

私には、「最初の彼女」という「幽霊」がとりついている。その「幽霊」は私が女性と出会うと、その女性を追い払う。どうやら「幽霊」である自分を大切にして欲しいみたいだ。でも、何故私の周りにいるはずのない彼女がとりついているのだろう。それは、僕自身の未練なのかもしれない。

ざっとこんな感じである。やはり彼女にとりつかれている私は、こういった文章を書いてしまうのであろう笑。

「幽霊」を楽しむ

「幽霊」を楽しむとはどういう感覚なのだろうか。多分世の中には、「幽霊」を楽しむことができない人もいて、その人とはこの点で絶対に分かり合えないと感じている。それはいいことだとも悪いことだとも思っていない、そういうものなのだ。「幽霊」を楽しむとは、「想像力」を楽しむことだと感じている。人々が「幽霊」というイメージを通じて、何か物事を共有したりすること、そこに面白味が発生していると感じている。

終わりに

この本の「凄み」から発想を得たと、アイディアを出した当時の私は言っているが、さっぱりどういうことかわからない。多分、筒井先生の文章に感化されたんだと思う。面白いので読んで欲しい。

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