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OUTLOOKやgoogleカレンダーがある時代に紙の手帳は使うべきなのか?

毎年、この時期になると来年の手帳が書店に並びはじめる。おもむろに惰性で買ってしまったのだが、過去手帳を活用できた実績はない。思い返してみれば、『日常に侵入する自己啓発』の中で手帳について言及している章があった。

自己啓発を批判するまなざしのように、手帳を書くことが意義あるものなのか一度検討してみることに価値を感じた。個人的なことを言えば、ここ1年くらいで脳のメモリーが減ったような感覚がある。有力な仮説としては、志向性の問題だと捉えているが、マルチタスクによる弊害なのか、それとも純粋にハードである自分自身の肉体が衰えてきているのかといった原因は考えられ、いつものように酒は控える宣言だけはしようと思う。

そして、これはこの文章の前提なのだが、紙に書くことにはタイピングによって記録することでは代替できないメリットがあると感じている。それは後に出てくる「カスタマイズ性」だ。また、電子のホワイトボードがあるが、これと比較においては、参照のしやすさがあげられる。この点に関しては今後の開発を期待したい。

買った手帳に目を落としてみれば、「人生を好転させる」とある。そこまで人生悪かったような感覚はねえよとツッコムのは虚しいのだろう。その文言だけみると手帳に記入したくなくなるのだが、そんなことを思っているあたり好転する余地はありそうだ。

OUTLOOKやgoogleカレンダーとの比較

ハッキリ言ってしまえば、一般企業の日常の業務範囲であればOUTLOOKやgoogleカレンダーでこと足りるし、他者との連携を考えたときにプライベートや余程公開したくないスケジュールでもなければ、これらの予定管理ツールを最小組織単位で活用することができれば業務効率は飛躍的に上がると考えられる。

まず、OUTLOOKやgoogleカレンダーの利用の方が、手帳に比べて確実に予定の確認の意味において早い。予定の記入においては、「書きたい場所を開く、記入する」の過程があるが、特に記入において大きな差が生まれる。文字を手書きするスピードは確実になれたタイピングやスマホにおける入力に勝てない。

また、チーム単位での予定の共有においてもそうである。OUTLOOKやgoogleカレンダーにチーム構成員が各自予定を記入していけば、それぞれの予定の把握が、最初の予定共有の設定一つで済む。これはチームが3人以上になると絶大な効果を持ち始める。

予定の記入速度や、その共有の面においてはOUTLOOKやgoogleカレンダーに軍配があがる。では、手帳を手書きするメリットは現在において存在しているのだろうか?

手帳を手書きするメリットはズバリ「カスタマイズ性」

OUTLOOKやgoogleカレンダーにおいてできないことが一つある。それが「自由なお絵描き」だ。人間は文字によってのみイメージの伝達を行っているわけではない。図やイラストを簡易的にでも書くことができれば、イメージの伝達速度は飛躍的に上がる。

現時点での電子的な予定管理ツールには、そうしたイメージの伝達を補完するものが存在していない。正確には、マイクロソフトホワイトボードやグーグルJAMなど、存在はしているが、紙の手帳のように予定と調和した状態でそれらを記入することができない。

また、e-yachoといった絵をかくことに特化したツールも存在するがそれは、予定の管理という視点において、手帳にはかなわない。

手帳が今現在唯一メリットを持っているとすれば、自由に絵を書いたりしてカスタマイズすることができて、イメージの伝達速度が一番早くなる可能性があることだ。

手帳を使わないという選択肢

少しメタ的な話になるのだが、手帳を使わないという選択肢がある。書店に手帳が並べられていると、その存在するという事実から盲目的に「予定管理を紙の手帳によって行わなければならないのではないか?」という強迫観念に囚われることがある。

しかしながら、一歩引いて考えてみれば「手帳を使わない」という考え方もある。書店は書店で、この現代において紙の本を売っていかなければならず、そのマネタイズの一環として手帳が存在している可能性は大いにあって、適正以上に供給されていることも考えられる。一方手帳自体の目的は、人生をうまく回すことに過ぎないため、手帳を書くことのコストがかかりすぎるとすれば手帳を記入しないという選択は十分にありえる。

それは、OUTLOOKやgoogleカレンダーの利用においてもそうで、これらを使わず管理することができるのであれば、あるいは、予定をたてなくても生きていくことができるのであれば、予定自体を作る必要性もない。

その「人生のカスタマイズ性」がややこしくしている側面もあるのだが。

手帳を二冊も買ってしまった

偉そうにこんな文章を書いている私だが、手帳を二冊も買ってしまっている。来年は割と激動が予想されるので、こまめに予定管理する必要は大きく感じているのだが、それにしても書店の戦略にしてやられている感は否めない。

実はこの話はnoteにもつながるのだが、「書きすぎ」という存在は十分に考えられる。本来思考を整理するのに効果的な最大限の量よりも書いてしまっている可能性があるのだ。

例えるなら、使われないマニュアルを書くようなものである。書くこと自体のコストがかさみすぎて、実際にはあまりつかわれないマニュアルを作っているようなことが考えられるのだ。

なかなか、手帳をはじめとして予定の管理一つとっても選択肢が広く難しいように思える。それはある程度の歳月の中で最適化しなければならないことの一つなのだろう。

本来私は学生のころから、手帳を使わずに生きてきた。しかしながら、目指すものが大きくなると頭の容量だけでは足りなくなってしまうようである。この連続性を持たせることができるかというのも一つの大きな手帳の効果のようである。

当然ながらこの一年で手帳を使わなくなる可能性は結構ある。ここまで読んでくださったみなさんにおいても、これが予定管理を見直すきっかけになってくれたらうれしい。

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