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噓は理性によってしか成立しない

「おかしなことよ。嘘にまみれた子供が人には真実を望むか?」

シャルル・ジ・ブリタニア『コードギアス・反逆のルルーシュ』

性懲りもなく、友人と二軒目にガールズバー行ったときの話である。コンパニオンさんに対して初めに、一つの噓をついた。

「実は、私達こういうガールズバーとか、キャバクラとか初めてで、お手柔らかにお願いします。」

半分本当だ。というのも、友人はまだ学生で、社会経験というノリで初めて行こうといったのが、私の誘い。彼は快くノってくれた。そして、噓にはちょっとした私のかっこつけでもあった。「ガールズバーは行ったことがない」というかっこつけである。

終わった後の三軒目で友人にたしなめられた。

「お前、平然とバンバン噓つくんだもん」

人には見せない顔がある。確かに、彼の前で噓らしい噓はついてこなかった記憶がある。恐らく関係性を構築する前提には、相手が本当のことを言っているという前提があると、その枠組みに縛られながらも少し効率的であるように感じる。

そして、恐らく噓をついた、一番大きな理由は、心に防波堤を築くためだったのだろう。割と本音を話すよりは、噓でうまく生きてきたタイプではあるのだが、今回はミスをしてしまった。

噓をつくには、細部に気を付けなければならない

その二軒目に入ったお店は、初めて入る店であった。他の地方においては、接待やら、なんやらでいったことはあったが、横浜では初めてであった。ガールズバーといっても今回のお店は、裁判所くらい良心的で、最初に料金システムの提示をしてくれた。

噓は、後の前提として機能し始める。噓をつくにせよ、本当のことを言うにせよ、会話というのは決まり事の積み重ねである。「ガールズバーが初めて」といったら、それが噓であっても本当であっても、それを起点として会話が進むのだ。

普通であれば、相手が噓をついているとは疑わない。疑っても表にださない。「相手が本当のことを言っている」ことは、疑うことで相手を不快にするものであるからだ。お客を前にしたお嬢様であればなおさらである。

噓にはついたからには、通さなければならないという私の流儀がある。「私は噓をついていませんよ」と相手に噓をつき続けるのは、せめてもの相手への誠意である。そこでは、後の言葉一つ一つに細心の注意を払わなければならない。昔行ったことのあるお店の話などの、直接的に噓と矛盾する話はもちろんのこと、常連が使うような業界独特なワードなどの、間接的に背景を示してもいけないのである。

噓によって作られた前提のもと、自分の中にある本当の物事を少し改変して、会話に臨まなければならない。そこでは、自分が何を言ったのか。今の会話に対して何を返答しなければならないのか。その返答では、本当のとこからどのくらい改変しなければならないのか。そこによって生じた噓もやはり軌道修正を後の会話に要求する。

物切れのたどたどしい会話のはて、飲み過ぎて潰れかけている友人を横目に、噓は白日のもとにさらされる。

噓をつき、通し続けるには、理性が必要

会話を続けようとした質問がよくなかった。

「お姉さんは、昼職なにをやってるの~?」

アホである。確かに昼職と言えば、イメージの伝達としては楽なのであるが、アホである。ガールズバーとかそういうとこがはじめての客は、そんな言葉を使わない。

少し酔っ払い過ぎていたのであろう。友人に延長の選択権を与えたはず私は、酒の酔いと初めての空気感の酔いのダブルパンチでグロッキーになっている彼を言い訳に、そそくさと店を出るように提案した。

「おかしなことよ。嘘にまみれた子供が人には真実を望むか?」

シャルル・ジ・ブリタニア『コードギアス・反逆のルルーシュ』

望みはしないさ、ただ噓で面白おかしく生きたいのさ。

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