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映画「博士の愛した数式」


公式のあらすじ

家政婦をするシングルマザーの杏子は、80分しか記憶が持たない天才数学博士のもとに派遣される。そんな博士とのコミュニケーションは杏子にとって困難の連続。その一方で、博士の語る数式の神秘的な美しさに杏子は魅了されていく(小説のあらすじ)


自分用の要約

高校の数学教師の男、あだ名は‪√‬(ルート)。
‪√のような寝癖をつけ、彼の今期の最初の授業が始まる。
彼が話すのは、彼と数学の出会い、そしてその出会いに欠かせない「家族」の話。
‪家政婦をする‪√‬の母が派遣された、80分しか記憶の持たない「博士」。誕生日、足のサイズ、数字に関することはなんでも楽しそうに話す。穏やかな性格かと思えば、突如繊細に物思いにふける。子どもに対しては心配性、過保護な程に神経質である。家政婦に子どもがいると分かれば「寂しい思いをさせてはならない」と家へ呼ぶように言う。
やがて3人の関係は緩やかに形を作っていくが、「博士」を経済的に援助する義姉は、その関係を異様に煙たがるのであった。

映画の独自設定

博士と未亡人が不義の関係にあったことを伺わせる(Wikipediaより)

感想

ありがとう√先生、あなたがいなかったら正直何言ってるかわかるのは無理だったと思う。

私は高校数学すら1aまでしかやってない、バリバリの文系である。努力を早々にやめてしまったがゆえ、数学の奥深さを「好きな人の語りから感動する」ことはあれど、理解などしていないのだと思う。

ルートは、魅力的な授業をする先生で、かなり好かれている様子だ。いや実際私もめっちゃ授業受けたくなった。数字への愛情、というものを、博士の言葉や経歴で上辺でなぞるよりも、ああしてルートが美しさを言語化して共有してくれることで、こちらにもしみてきたなと感じた。

もうひとつ。映画として描く上で、未亡人の存在は非常にいいエッセンスだったのだと思う(お恥ずかしい話、まだ原作を読めていないので浅丘ルリ子の涙が素晴らしくて呑まれたのもあると思う)

「あなたのことは80分しか覚えていません、私のことは忘れないけれど」

(ごめんなさい意訳に近いです)

ビシバシ伝わってくる「若くて綺麗な家政婦」への牽制、事ある毎に強調する「彼の中にある自分の存在」、そして故にラストに溢れ出る想い。
彼女を「疎ましいキャラクター」だと思って排除してしまったら、博士のもつ繊細さのキーが、「変人数学者」という括りに終始してしまうだろう。

(そもそも文学に限らず、理系の研究者は往々にして変人のレッテルを受けがちであり、そのステレオタイプを私はなんの躊躇もなく受け入れてしまう、よくないよくない。)

未亡人の独白は、47歳と55歳で事故にあった2人が、恐らくもっともっと前、未亡人の夫が健在であったころには既に関係があったのだと思わせるには十分なものであり、そうした「不義」の断罪によって訪れた結末に対して、償いのつもりで目を背けている。そんなように感じた。そんな止まってしまった時計を動かしてくれたのは‪「‪√‬」、博士が「どんな数字でも受け入れる」その記号から名付けた少年なんだ。

小さい頃に母が映画を見て、小説も家にあったので、名前だけは身近な作品だった。
けれど、当時の私には難しかったのか、はたまた超展開がなくて飽きてしまったのか、しっかりと見た記憶はほとんどなかった。
大人になって改めて、一筋縄では行かない人間の難しさと、それでも柔らかく展開するありがたさを感じる。

「言い表せない唯一無二の関係」の尊さ

規約を破り、博士の介抱をしたことで、あらぬ誤解を招くと咎められ家政婦は、自分たちのともすれば曖昧な関係に否定的な未亡人と相対して、「これは友情だ」と声を上げる。

おそらく彼女自身も「友情そのものだ」とは思っていないのだろう。シングルマザーで必死に働く彼女の様子からは、およそ「愚痴を言い合うような友人」の存在は感じられなかったし、そもそもルートは「結婚できない相手との子」であり、両親を頼るような様子もないことから、ある程度人間関係については整理した、あるいはせざるを得なかった可能性もある(原作読んだら違うかもしれないけれど)

その中で「理解してもらうには友情と言うしかない」という必死の思いが溢れたセリフだった。

そう思うのは、私自信がそういう「言い表せないけれど唯一無二の関係」を持っているからだろう。
私の場合はそれを「腐れ縁」と呼んでいる。友情と呼ぶには遠慮が無さすぎる互いに「醜い脳内をさらけ出し合える存在」というのは、どれだけ長い時間語り合っても得がたい。
「私はコミュ障だから」「私は友達がいないから」というような言葉を吐く同世代はとても多い。だが一方で本当に孤立しているケースはほとんどない。声をかければ会えるような存在はいくらでもいるのに、彼らはそれを「友」とは呼びにくい。では彼らが求めているものはなんだろうと思うと、「多少も気を使わないでいい関係」だろうか。だとしたら少しでも遠慮のある関係は友達と呼びにくい、あるいは向こうはそう思ってないかもしれないという不安の現れなのかもしれない。

未亡人と博士、そして‪√‬と家政婦の関係は「家族」だろうか、「友情」だろうか。

それに答えを出すのが博士が未亡人へ渡す付箋
e^πi+1=0

私は引くに引けなくった未亡人への、博士なりの「性愛ではない愛情」の結論に思えたのでした。

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