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『恐怖とは何か?』

先日の記事である『もし突然スーパーマンの能力を手に入れたら』に関しては、皆さま多くの反響をいただき誠にありがとうございます。

この問いかけは、上記記事に載せさせていただいたわたしのTwitterや、他にもご自身のTwitter上及びnote記事などを用いて書いていただいた方々が多数いらっしゃいましたので、是非ご自身の考えと合わせて他の方の考えもご覧になってくださいませ。また、それを機にこの素晴らしい架空の世界をお楽しみください。

新たな問いかけに伴うダークナイトの存在

さて、今回の記事において上記の内容を踏まえさせていただいたのは他でもない。今回の主題となる《《彼》》が、スーパーマン無くしては語れない存在だからです。

『ケープを纏った聖騎士』『ダークナイト』『犯罪者にとっての恐怖の象徴』。スーパーマンとはあまりに異なる彼のその異名は、彼自身の出自もさることながら、恐らくは誰よりも印象深いそのオリジンが非常に強く関わっている。
────幼い日。怪傑ゾロの舞台、あるいは映画を見終えたブルースウェイン少年は、その帰り道にて悲劇に見舞われる。
突然現れた強盗。
庇う父親。
怯えながらも自身を庇う母親。
しかして、強盗が見舞った凶弾はあっさりと両親の命を奪い、彼にその後も多くの時間与えられるハズだった安堵無垢なる愛情を永遠に奪い去った。

絶望した彼は、時を経て決意する。かつて自身が館の地下にて遭遇した、蝙蝠の群れへ恐怖し二度と同じ真似はしないという教訓になぞらえて。自らが恐怖の象徴となり、二度と自身と同じ悲劇を繰り返させない、悪意における恐怖となることを。
そして、彼には莫大な遺産が遺されていた。そしてそれを管理し、彼の親代わりに傍に居続けてくれる執事アルフレッドがいた。月日を経て鍛錬に次ぐ鍛錬を積んだブルースウェインは、ある日より夜の時間を自らのモノとする。犯罪者の時間……すなわち、バットマンの時間である!

無数のバットマン

バットマンは、その存在が生まれた経緯自体が少々の奇妙さを含む。なぜかと言えば、彼はある意味でスーパーマンのコピーとして生まれたのだ。そしてそのキャラクターはことごとくスーパーマンの逆張りと言ってもよい。
スーパーマンが燦然と輝く太陽を背に現れるならば、バットマンは宵闇の薄暗い霧の中から現れる。
スーパーマンが希望の象徴とされるなら、バットマンは恐怖の象徴として描かれる。
その正体もまた面白い。スーパーマンの正体が田舎者で上京してきた朴訥な若者クラーク・ケントであるのに対して、バットマンは社交界の変わり者にして大富豪のプレイボーイ、ブルース・ウェインであるのだから。

だがこれらの要素は何も、バットマンがスーパーマンを否定する存在であるわけではないと断言できる。太陽が無ければ月が輝くことはないように、常人に過ぎない彼が選んだ手段は必ずしも正しいとは限らずとも、それを否定するだけの理由が中々見つからないのも確かなのだから。

……さて、本題に入る前にもう一人の人物を紹介しておく必要がある。ある意味では彼もまた狂気に取りつかれた存在ではあるが、バットマンとは似て非なるどころか、むしろ真逆の存在である彼のことを。

自らを定義することで狂気の淵に落ちることを防いだ狂気の伝道者

「Humm……」

まず断言しておくが、彼はヒーローに所属したことはあってもヒーローであったことはほんの僅かでしかない。それは彼自身もまた自覚していることであり、様々な媒体で描かれるヴィランと同じく"そうならざるを得なかった存在"でもあるのだ。ではなぜ彼は自らをヒーローであると定義し、狂気の淵に落ちかけながらも、本来ならばありもしない筈だった真実を追求しつづけることが出来たのか。

────ウォルターコバックス。彼の人生は悲惨そのものだ。娼婦である母親に産み落とされた彼は、常日頃から疎まれていた。だが同時に、虐待を受けながらも絶え間なく湧き上がる暴力的な衝動を抱えてもいた。
鬱屈した人生を送っている人間の顔を見たことがあるだろうか。それはひょっとしたらすぐ近くの鏡に映っているかもしれないが、そういった人間の顔はただそれだけで人に不快感を与えることがあるのだ。ロールシャッハはまだ幼い内から人生に疲れていた。だが同時に、ただやられたままで終わるほど大人しくもなかった。幼い日、からかわれ侮蔑された彼は相手を失明させるほどの重傷を負わせる。彼はそのことを謝罪すらしないし、なんならもっと大けがをさせてよかったとすら考えているだろう。暴力とは手段に過ぎない。だがそれに溺れるものが多くいる中、彼はそれをどこまでも手段として自らのなかに抱え続けていた。

その後彼は親が死に、養子となり、働き始めた。その後しばらくの間大人しかった彼だが、とある衣類を注文されたことからその人生にひとつめの転機が訪れる。その注文とは"絶えず変化し続けるインク"を施された衣装だった。だが実際に完成された左右対称のそれは、気味が悪いとしてゴミになった。しかしロールシャッハはその様子に感激すら覚え、密かに廃棄するはずだったそれを持ち帰り裁断した。しかしこの時はまだ、彼にとってこの変わった布切れは一種のオモチャに過ぎなかったのだ。

……さて、話を戻そう。今回なぜこの二人を並べるに至ったか。わたしが答える為に彼らのプロフィールのほんの一部だが、なぜそれらを並べたのかを。

ある問いかけ

この質問を受けて思ったのは、ロールシャッハのモデルがクエスチョンというヴィジランテであることもそうだが、彼とバットマンは確かに繋げて考える人が多いであろうということだった。なぜならば、わたしもまた最初にウォッチメンという映画を見た時に感じたのが、フックショットでビルを上り現場へとやってくるロールシャッハの姿に、彼を幻視したからでもあった。

まず、順番に答えていこうと思うが、ひとつ注意事項を書いておきたい。上記に書いてきた内容は、ある程度アメコミに明るければ知っているかもしれない話題である。そしてここからは、ウォッチメンのネタバレにも繋がる内容なのだ。あの素晴らしきグラフィックノベルを、一種の総合芸術を無垢なるままに楽しみたいと思うならば、どうかこのnote記事のここから先は読まないでいただきたい。











それでは答えていくとしよう。ロールシャッハは変わったインクを使用した布を裁断し、それをやがてマスクへと加工した。先ほど書いた彼のひどい人生にて、わたしは敢えて書かなかったことがある。それは、ロールシャッハは自分の顔を誰よりも醜く、ひどいものだと思っているということである。
それは母親から授けられた呪いであり、ロールシャッハに至った理由の一つでもある。彼の顔は、お世辞にも整っているものでもない。そしてそれは彼自身が自覚しているところでもあり、常に彼の人生を苛み続けた要素そのものでもあるのだ。
彼の幼少期の描写を見ればわかる。不良じみた子供が彼を侮蔑し、汚し、尊厳を凌辱していく中、すぐ近くにいた筈の大人たちは何一つしていない。ところが、彼が相手の目を吸っていたタバコで焼き、取り巻きに噛みつくに至って彼ら彼女らは悲鳴を上げ、彼を警察へと突き出すのである。
これだけの出来事があって、どうやって彼が自分の容姿を褒めることが出来よう?
彼がロールシャッハとしてのマスクを顔と呼ぶのも、それは鏡を見ても耐えられる新しい顔を欲したからでもあったのだ。そして、彼は新しい顔に新しい役割を与えた。ウォルターコバックスという誰からも拒絶される醜い小男ではなく、ロールシャッハという薄汚い悪党を痛めつけるヴィジランテとしての役割を。
しかし彼はその頃のことを「甘かった」と悔いている。そしてその後に起きたことを……わたしはこれを悲劇と呼んでいいかわからない。だが少なくとも彼が人間の持つ悪意を形にして見たことで、ある部分で見限ったきっかけは間違いなくその後の事件だろう。またこの事件の詳細を聞き、彼が本当の意味でロールシャッハの役割(ロール)をこなすようになったことを知った刑務所の精神科医はその心を病み、家庭を破壊しその後に続く物語への布石となっている。その物語の全貌をわたしはまだ見ていないが、それはひとつの狂気がふたつにもみっつにも伝播することを意味しているのだろう。

恐怖の対称形への問いかけ

この言葉はロールシャッハを表しており、また事件の転換点ともなるある出来事が起きる章のタイトルでもある。
バットマンとロールシャッハ。彼らを比較する意味とはなんであろう。考えれば考えるほどに、彼らは対照的だ。

片やバットマン────ブルースウェインは両親を失う悲劇にこそ見舞われているものの、その容姿は端正でプレイボーイ。また死ぬまでには使いきれないほどの莫大な財産を持つ億万長者でもある。

片やロールシャッハ────ウォルターコバックスは父親は居らず、母親からは忌み嫌われ、繰り返し虐待とネグレクトに晒され続けた過去を持ち、母親の死をむしろ歓迎したほどであった。無論彼に金など無い。下水道に隠れ住んでいるのかと思わせるほどにその体臭はひどく、食べるものは友人の家から盗人同然に奪った冷えた豆の缶と角砂糖という有様だ。

しかし彼らはどちらも自分自身を犠牲にして悪を追い、僅かな可能性を無数の情報から整理し不屈の信念で追い続けている。彼らに共通することがあるとするならば、それは"絶対に妥協しない"というその一点だろう。ゆえにこそ、彼らは互いを絶対に認めないかもしれないが……。

ウォルターコバックスにとって、ロールシャッハの顔は自らの顔そのものであり、彼が生きていく上でその役割を生きる上で必須の皮だ。これがなくては、彼には何をすることも出来ない。彼はロールシャッハでいることでようやく生きているし、逆を言えばロールシャッハでないのならばあとに残るのは凶暴性を剥き出しにしたウォルターコバックスという惨めな小男だけである。そして質が悪いことに、彼はそれを他の誰よりも自覚しているのだ。何故ならば彼は白と黒が混ざることを認めない存在。ロールシャッハなのだから。

────しかしだ。そんな彼にも許せないことがあった。彼は本来なら頭のおかしい陰謀論を論理だてて追いかけ、ヒーロー殺しの危険を周囲に警告し、その犯人を追い続けていた。そしてようやく追い詰めた真犯人にしてかつての仲間。エイドリアン・ヴェイトことオジマンディアスの口からその企みの全てを聞いた。自身の狂気的な行動すら彼の手の上で踊らされていたに過ぎないことも。だが彼は諦めていなかった。数百万人を犠牲にし、未知なる脅威を全人類の頭に直接送り込むというオジマンディアスの計画。その悪逆非道にして残虐なやり口を彼は認めたくなかった。

彼は最後の戦いを前にして、自身の終わりをどこかで予感していた。刑務所にて彼は、マスクがなくともロールシャッハとして行動した。その時点で、ひょっとしたら彼はマスクに役割を授けることへの無意味さを自覚していたのかもしれない。誰からも愛されず、認められず、孤独の中でたった一人得た友人に安堵を覚え、そして自らにある悪を許さないというちっぽけな信念が、心の中で思った以上に彼を支えている可能性に。

彼は最後に叫ぶ。

殺せ!!!」と。

なぜ彼は自らを終わらせたのか。
それは、ヴェイトのした計画が許せなかったのでも、それによってもたらされる平和を認められなかったのでもない。


悪徳によって維持される平和


それそのものに嫌気がさしたのだ。

彼はロールシャッハである。白と黒のインクが混ざり合うことなく、その顔を覆い、悪党を苦しめ、痛めつけ、自らが考える正義を成し遂げる為には殺人も辞さない狂気の存在である。そんな彼が唯一支えとしていたこと。

それは、善や平和は人々の善意によって成し遂げられるという、たった一つの見ることすら難しい希望だったのだ。
それが、オジマンディアスという自ら天才を自称する悪党によって木っ端みじんなまでに吹き飛ばされた。
そのことはまさしく彼の最後の行動が示している。彼がようやく得た信念のままに突き進めば、世界はやはり焼き尽くされるだろう。
しかし信念それを否定すれば、彼が最後まで信じた善意による平和は存在しないことになる。世の中は灰色に満ちている。だがウォルターコバックスという男は、ロールシャッハは、そんな世界を認めたくなかったのだ。
彼には希望が見えて欲しかった。絶望の果てに響く哀惜の慟哭でも、怨嗟の嘆きに響き渡る断末魔でもなく、それらを吹き飛ばす圧倒的な善意と正義が見たかったのだ。

マスクを外した彼は果たしてロールシャッハだったのか、それともウォルターコバックスだったのか。
恐らくはどちらもであったのだ。
そしてあの瞬間だけ、彼は真なる意味でヒーローとしてのロールシャッハになれたのだということは、なんと残酷で哀切に満ちていることだろうか。

恐怖の象徴への問いかけ

バットマン────ブルースウェイン。彼にとって、自らが纏う漆黒の衣装は夜に紛れる戦化粧のようなものだ。彼が求めるのは、恐怖による犯罪の抑制。莫大な金銭と類まれな頭脳、そして人類最高峰の身体能力と最高水準の格闘能力を持ってして、あるいはメタヒューマンとも正面から戦う紛れもなく人類最強の男。

だが、これは彼を示すひとつの要素に過ぎない。とある短編で、強盗に襲われた子供連れの夫婦のうち、夫が心臓発作に倒れてしまうことがある。バットマンは彼らを必死で救う。トラウマと戦いながら。救急車が来るまでの間、必死で人工呼吸を施し、心肺蘇生をしながら「生きてくれ」と願う。
結果として、彼らは助かった。しかしそれはブルースウェインのトラウマを払しょくするのでも、バットマンとしての終わりを意味するのでもない。全ては過程なのだ。

彼は生きている限りバットマンである。恐らく彼もまた、思い悩んだことがあるだろう。
バットマンこそが自分の本質なのか、と。
だがそれは、あまりにもあっさりと否定できる。先ほどのウォルターコバックス────ロールシャッハではないが、彼、バットマンは孤独ではないからだ。

バットファミリーとまで呼ばれる存在。複数の世代に渡って存在するロビンバットガール。無論戦うものだけではない。
ゴードン署長やルーシャスフォックス。そして無論アルフレッドの存在。
バットマンを助け、彼を援助する存在達だ。なぜ彼らは、あるいはその命を賭けてまでバットマンを助けるのだろうか。

それはバットマンが、ブルースウェインが自らの生涯を犯罪撲滅や抑止に費やしているからではない。そして無論、彼のトラウマに同情しているからでもない。彼らはみな、バットマンに救われた存在であるからだ。それは一種の恩義であり、絆だ。彼にされたことを、より大きなもので返す。
無論バットマンはそんなことを意識した事もないだろう。恐らく初期の彼には他者への余裕などなく、手にした技術や力に溺れ……あるいは怒りや憎しみに支配されかけたこともあるだろう。

だがバットマンの行動理念にこういったものがある。

justice not vengeance

彼が自身の息子ダミアンウェインに向けて、アニメ『バットマンVSロビン』にて語り掛けた言葉だ。
意味はすなわち「正義は復讐ではない」ということ。ここが、ロールシャッハとの決定的な違いでもある。バットマンは人殺しをしないというイメージがあるが、それは無意味な殺人をしないということであり、彼とてそれを描くライターや作家によっては場合によりけり殺人をすることは普通にあるのだ。だが大事なのは、彼がそれを目的としていないこと。そしてそのことがまた、彼が所詮人間に過ぎないのだという可能性を示している部分でもある。

今回後者の問いかけに対して、わたしはひどく悩んだ。何故ならば、バットマンはあまりに多いのだ。わたし自身この記事のタイトル画面にしたように、最初に見たバットマンはティム・バートンが監督し描いた世界観の作品であることは間違いないのだ。この作品において、バットマンはひたすらに揺れる。かつて両親を奪い、そして自身の戦いによって生まれた怪人ジョーカーがもたらす狂乱の地獄絵図を見て、彼を殺すべきか否かを。殺人とは結果である。そして、それが自分の意思で果たされたのかという問いかけは、非常に重く強い意味を持つ。

仮にブルースウェインの本質が、バットマンである自分自身こそであるとするならば────その果てに待っているのは傑作であるダークナイトリターンズ及びダークナイトライジングのシリーズにあるような世界だろう。あの世界において、彼は徹底的に他者を信じていない。彼の頭にあるのは、相手を利用し打倒す為の情報それだけである。だがそれゆえに、あの世界においてはバットマンは世界を支配していた巨悪を倒すに至るのだが……この話はまたいずれ機会があればすることにしよう。

なぜあの作品とバットマンそのものを比べたかというと、それはすなわちバットファミリーの不在である。彼を支える存在。それはアルフレッドのみでは絶対的に足りないのだ。彼はブルースの傍に立つ家族以上の存在であると同時に、どこまでも彼にとっては甘える対象となる安堵にも似た要素を有している。
彼を支える為に必要な存在とは、彼が思っている以上に、そして読者が思っている以上に多いのだ。
そして彼は自らの意思で殺意を発露しないからこそ、どこまでも自らの掲げる信念のままに戦うことが出来るのだろう。それが、如何なる社会においても必ず誕生するバットマンという存在への答えなのだ。

恐怖とは何か

敢えて断言してしまえば、恐怖とはすなわちよくわからないものである。バットマンが実際に恐怖の象徴であったことは、それほど長くはないだろう。実際に作中において彼はあまりに有名な存在となっており、都市伝説でありながら雑誌において描かれた複数の展開においてはバットケイブを案内するような様子まで見せている。とはいえこれは遥か昔、シルバーエイジでの出来事なので現行のバットマンとはまるで違うことでもあるのでご注意を。

対称形の存在である二人。彼らはどちらもが絶望から生まれた存在だ。
しかし一方は愛をそもそも知らず、一方は愛を知りながら奪われた者である。そして今後もその経緯や存在には様々な議論がつきまとうだろう。
よく目にする彼らへの疑問としては
他に方法はなかったのか
というものだ。
これにはジョーカーも苦笑いだが、彼らにはそれしかなかったのだ。その表面的な要素だけを纏めれば、彼らはどちらもコスプレをした狂人である。だが狂人としての側面を持つと同時に、不屈の信念を形にした存在でもあるのだ。

わたしはヒーローとしての彼らに敬意を表する。その行いに例え認められない点があったとしても、強い信念が不可能を可能にしてきた事実は何事にも代えられないのだから。

そして忘れてはいけないことがひとつある。この世にいる誰もが、他の誰かにとって何らかの象徴であるという可能性

それは、絶対と呼べるほど強く否定しきれるものではないのだ。

……さらに踏み込むのであれば、それが何であるかは……恐らく分からないままでいる方が幸せなのかもしれない。

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