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文章内容よりも文体に宿るもの 奥村忍『中国手仕事紀行』

奥村忍『中国手仕事紀行』。
「みんげいおくむら」店主が、まだ見ぬものづくりを求めて中国各地を旅する紀行文だ。

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君に合うと思うよ、と知人がくれた本なのだけど、読むと、たしかにグッとくるものがあった。
紀行文や、ものづくりの本は元から好きなのだけど、何というか、文章がいい。というか、すごく親近感が湧く文体だった。

例えば、
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"念願の塩と対面し、大満足で市場をあとにしようとしたら、足元に気になるものごあった。黒くて小さな粒。表面がやや乾いており、セミドライになっている。クロスグリみたいだな、と思った。けど、そんなにジューシーな感じでもない。

気になって一粒食べてみた。
なんだこれは。知ってる味のようだけれど何か思い出せない。
食いしん坊ドライバーのジャックが、「オリーブだよ」といった。なんとなんと。かなり小粒だが味わいが深い。原種に近いものなのだろうか。"
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いいなぁ。この粒を発見してから食べた時までの様子がよく伝わってくる。
それにしても、どうしてこんな書き方になるのだろう。
あたりまえだけど、奥村さんは、旅した当時のことを思い出しながら書いている。その時の、旅の驚きや嬉しさ、感情が、抑制をきかせながらも瑞々しく描かれている。
時折、過去形の文章にならなかったりするのは、驚いている時のその感情が、書いているこの今、奥村さんのなかに呼び起されているからじゃないかしら。

この本をくれた人にそのことを伝えたら、そうそう、それ君の文章にもちょっと似てるよと言われて、そうなのかと思った。

奥村さんみたいに日本人が行ったことのないような場所に赴いたりはしてないし、卓越したものづくりへの視点や知識は持ち合わせていないのだけど、けれど、この、驚いたり、知りたがったり、わくわくしたり、その感じ方や思い出し方は、たしかに何となくわかるような気もする。

もっというと、こういった感じ方にあこがれを持っているといってもいい。例えば、堀田善衛の、宮本常一の、山田和の、星野博美のような、世界への向き合い方や驚き方を。もし、それに少しでも近づけているのであれば、嬉しいな。

その人の視点や感じ方は、文章の内容よりもその文体に宿るのかもしれない。


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そう、あとがきで、奥村さんが影響受けた人に、熊本にある『工藝きくち』主人の菊池典男さんの名前がでていて、思い出した。

大分にいた頃、『工藝きくち』へいって、菊池さんと長くお話しをさせていただいたことがあった。その時聞いたことは緩やかに自分の価値観の中に残っている。家にあるホウキは、その時に譲ってもらったもの。これも、中国で買い付けしてきたものだと言っていた。「でも、今ではもうこのホウキは作られてないだろうな」とも。

奥村さんは、菊池さんのこの思いを受け継いだのだなと思う。それにしても、1年の3分の2を買い付けの旅に費やしているのか。それは、なんて、ねぇ、うんうん、、

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