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折り重なり多声化する「語り」の問題 久松知子『Storyteller』

常陸国出雲大社のギャラリーで観た、久松知子さんの展覧会『Storyteller』。

稗田阿礼と言う人物に「語らせる」ことで書かれた「古事記」がモチーフだ。
キャンバスに描かれた稗田阿礼は、男性か女性か判別できない。どれが本物かもわからない(全員本物なのかも知れないしその逆かもしれない)。ぶつぶつと続く呟きは、途中で重なり混ざり見えなくなる。



ここが常陸国出雲大社であること以上に、この「ストーリーテラー=物語の語り部」は、日本の初源から現代までの歴史の問題、そしてアーティストの役割や矛盾、可能性までを繋ぐテーマのように思えた。

日本最古の歴史書が語り部による肉声を書き留めることでつくられたこと、パロールを介したエクリチュールであることは、神話と歴史書との境を無くす為に必要なことだったのだろうか。それは古事記に「歌謡」が挟まれていることへの問いでもある。


同時にこれは、例え歴史書であっても語り手の捉え方や表現によって意味が変わってしまう危険(もしくは希望)を孕んでいることでもある。エビデンスが同じでも主張が真逆になりえてしまうこと。描かれた稗田阿礼はネット上に漂う無数のつぶやきにもみえた。

そして、作者である久松さんもまた、古事記のストーリーテラーとしての役割を担っていることも重要だ。日本美術も、岡本太郎も、大原美術館も「語りなおす」アーティストとしての自己言及的な作品でもある。そこには恐らく否定も肯定もなく、常に語りなおされ続けてきた歴史を捉え、その矛盾と可能性を引き受ける姿が写し出されているように感じた。


折り重なり多声化する「語り」の問題。これを書いている僕もまた、既に取り込まれているのかもしれないけれど。

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