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「そうではない道があったのでは」という想像を 『所沢飛白』

ところざわかすり、と読む。
江戸晩期から100年ほど、所沢周辺で生産されていた織物。
起りは様々説があるが、そのうちのひとつは、狭山丘陵にあるお寺のお坊さんが、当時『さつま』と呼ばれていた木綿絣の技法を農家の女性たちに伝えたことから始まったとされる。

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さつま絣と同様、農閑期に農家の軒先で織られ、それを所沢の問屋が買い取っていくスタイル。農家の良い現金収入になっていた。

売られた先は、江戸ではなく、北陸や東北の方だったという。所沢の素朴で比較的安価な絣は、庶民の服として裏日本の農家の手に渡っていったのだ。 柄は、円「文久銭」や点「まるまめ」などシンプルで、かつ、効率を考え横糸を2本づつ編んでいく仕様だ。

それでも、需要があり飛ぶように売れたという。明治後期には年間120万反も生産され、タグにもブランド銘が明記されていた。所沢にはその問屋の羽振りの良さが語り草になっている。

それでは、なぜ、所沢飛白は衰退したのか。先日、所沢飛白を研究している宮本八恵子さんお会いし、話を聞く機会を得た。

原因はいくつかあるという。
1つ目は、粗製濫造。要は、売り手市場だったため、手抜きが横行し、ついには信用が失墜したという。織屋の合言葉に「表織りはしっかり織りな」というのがある。畳んだ時に表にみえるところだけはちゃんとするようにという意味だ。うーん、東北に縁がある自分は微妙な気持ちだ。

2つ目は、世の中の絣離れや新柄の研究不足。技術革新や創意工夫がなされず、マンネリで飽きられたのだ。
3つ目は、量産体制の遅れ。生産の主体は、琉球と同じで、規模の小さな機屋(コッパタヤ)で、機械生産に移行することが出来なかった。

さらに追い討ちをかけるように、昭和初期の金融恐慌の煽りを受けて、所沢飛白は完全に衰退してしまった。今は織っている家はない。

起りや全盛期の話はもちろんだけど、こうして、衰退の理由も知るというのは、とても大事なことのように思う。それは「そうではない道があったのでは」という想像と、これからの産業への具体的な教訓になるからだ。  


八恵子さんは、リサーチを重ねながら、資料館やカルチャーセンターで所沢飛白の再現をグループで行っている。大分にも『豊後絞り』という絞染めの仕事を再現するグループがあったのを思い出した。

産業や生業としては成り立たなくなった生産技術は、こうした方々によって辛うじて遺されていく。
これを復興と呼ぶのか、違うものとして捉えるのかは、まだよくわからないけど、昔の道具が生き生きと動いている様子を見るのは、ワクワクするな。

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