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岡本太郎と宮本常一がみた武蔵野
岡本太郎の武蔵野
岡本太郎が秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎に赴き綴った「芸術風土記」には、未完の一章があった。武蔵野についてだ。
武蔵野は荒いようでこまかい。茫々たるひろがり、大まかな起伏。だがそのひだの間には、意外にこまやかな影が織り込まれている。四季を通じて赴きがあるが、とりわけ晩秋から初冬、—すすきと雑木林におおわれた武蔵野の、あの明るいような、わびしいような気分—私は幼い頃から母親に連れられてよくこの広大なひろがりを散策した。武蔵野の土地に育ち、一面、その粗野な気配を身につけていた母親。彼女の郷愁を通して、私はこの自然に結び付けられた。
ここには現代はない。昔ながらの武蔵野が、豊かに生きつづけている。この素朴な大地にわれわれの祖先がどのように住み、生活をきりひらいていったのか。それにしてもこんな永遠の世界が、都心からわずかな所に、ひっそりとある。—それはまことにうれしい響きである。
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この文章が書かれた1960年代前半は、まだ昔ながらの武蔵野の姿があった。母・かの子の故郷でもあった武蔵野だ。彼女を仲立ちに太郎はこの地に結び付けられた。もうすでに縄文は彼に発見されていた。「われわれの祖先」という言葉には一万年以上の射程がある。
宮本常一の武蔵野
同じ頃に武蔵野に移り住んだ民俗学者がいた。宮本常一だ。1961年、常一は、三田の渋沢敬三邸から府中市に居を移し、1981年に没するまで生涯の住処とした。
日本中へ旅をしている合間に、この武蔵野を見てまわっていたという。彼はしかし、そこで失われていく武蔵野の風景をみていた。
太古以来十七世紀の初めまでは狭山丘陵やそのほか水のあるところを除いて、ほとんど人の住むことのなかった野をひらいて人びとは住みついた。そして一つの新しい風景をつくりだした。明治以来の文人たちがこの野にこころ惹かれたのも、この野を開いてそこに生きた農民たちの心に、その風物を通してふれることができたからであると思う。しかし武蔵野人の心はいま失われようとしている。
(中略)
そして、武蔵野が武蔵野でなくなる日が近づきつつある。ただ、だだっ広い、住宅と工場と学校の混在する郊外都市にかわろうとしている。
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2人の眼差しが交じわる先に
岡本太郎と宮本常一が作家の深沢一郎と共に対話したのは、1960年のことだった(「残酷ということ─『日本残酷物語』を中心に─」1960年『民話』第18号))。
宮本常一と岡本太郎の写真
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彼らの眼差しの交差を通して、いくつもの武蔵野を見つけることができるだろうか。
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