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民俗学、民族学、文化人類学の関心ごとについての記事をまとめてみました。
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2020年8月の記事一覧

"場"の説得力、演出力 下北半島『恐山』

少し前に行ったときのこと。 かつてこの山は宇曽利山「うそりやま」という名前だった。 「う…

shuzo_kumagai
3年前
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自分たちで消化し、血肉にする時間を 白老町『ウポポイ』

オリンピックに合わせてオープン予定だったが、オリンピックが延期+コロナ禍で人数制限の中で…

shuzo_kumagai
3年前
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古道具屋でみつけた繭皿

古道具屋で偶然みつけた皿。店主さんもこの皿の用途をご存知なかったので何とも言えないけど、…

shuzo_kumagai
3年前
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蚕が東京タワーに繭をつくる日

武蔵野にも養蚕の歴史はたくさんある。 埼玉西部の飯能は、平地が少ないかわりに桑畑を植え、…

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3年前
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この土地のうどん、かなり好きかもしれない 「武蔵野うどん」

陸稲(おかぼ)と麦が主要穀物だった武蔵野台地には、うどん文化が根付いている。 文化というか…

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3年前
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近世の生命観への啓蒙 『陰陽和合図』

この絵馬は、「子返しの図」と一緒に柏原白鬚神社の境内にある浅間神社に奉納されたとされてい…

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3年前
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この土地は、決して「豊かさ」だけではない 狭山市『子返しの図』

狭山にある『柏原白鬚神社』には、不気味な絵馬が奉納されている。女と、その隣には鬼が、同じ構図で描かれている。 神主さんに聞くと、これは江戸末期に描かれた「子返しの図」だそうだ。 子返しとは、間引きや子消しのことだ。この地域でも、貧しさゆえにそうせざるを得なかった時代がある。 享保の大飢饉は1732年、天明の大飢饉が1782年から87年まで、天保の大飢饉は1833年から39年まで。加えて重い年貢がのしかかり、幕末の農村風景は荒廃していた。 この絵馬には、子返しを戒めながら

立ち漕ぎしながら感じる縄文 『水子貝塚』

富士見市、水子貝塚。 新河岸の近くに、縄文前期の貝塚がある。といっても、ここは埼玉、海無…

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3年前
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ダイダラ坊の足跡を追え

世田谷区には「代田」という地名がある。近くには「代田橋」があり、その名前の駅もある。この…

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3年前
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武蔵野のお盆の風景

ご先祖さまとは密になっても良いと思うけれど。この時期は。

shuzo_kumagai
3年前
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「そうではない道があったのでは」という想像を 『所沢飛白』

ところざわかすり、と読む。 江戸晩期から100年ほど、所沢周辺で生産されていた織物。 起りは…

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3年前
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川への想いが記憶されているような 志木市『敷島神社』

武蔵野の富士塚を求めてさまよううちに、ここにたどり着いた。 ここには立派な『田子山富士』…

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3年前
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150年前の可能性 「幽冥」の風景                             大宮氷…

8月2日におこなわれた、大宮氷川神社の御幸祭。 こんなご時世にも関わらず、きちんとやってく…

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3年前
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武蔵野の地を歩いた円熟の民俗学者の姿 『東やまとの生活と文化』

東大和市『東やまとの生活と文化』。 東大和の民具を中心に調べられた資料集。 民具だけでなく、ツクリモノや住居、お墓まで詳細にスケッチされ、さらにそれにまつわる説明や聞き書きまでおさめられている労作。 これほどのボリュームと内容はそうそうお目にかかれない。もしや、、と思って、編集者の欄を見てみると、そこには、田村善次郎、相沢韶男、段上達雄、そして宮本常一の名前が。 これは、武蔵野美術大学の学生と共に民俗学者の田村善次郎さんらによって5年の月日を費やして編まれたものだったのだ。