世界は法律で覆われているか?


 第二次世界大戦前後に活躍したドイツの法哲学者グスタフ・ラートブルフ(Gustav Radbruch)は,無人島に着いたロビンソン・クルーソーを例に挙げ,一人ぼっちの時には「法」は無かったが忠僕フライデーにめぐり合ってから「法」が生まれたと説明しました。出典は不明なのですが,法律家の間では有名なローマの諺に「社会あるところ法あり(Ubi societās, ibi jūs.)」というものもあります。法をどのように定義するかによりますが,ルールといった意味で広くとらえるならば,社会には法(ルール)が不可欠ですし,逆に言えば,法のない社会は存在しないと言うことはできるでしょう。
 では,いったん社会ができると,その隅々まで法律で覆われることになるのでしょうか。次の例を使って考えてみましょう。

 入院していたA君は,お見舞いに来てくれた親友B君に「君が入院した時は必ずお見舞いに行くから」と言いましたが,数年後,B君が不治の病に倒れたにもかかわらず,A君は一度もお見舞いに行きませんでした。A君が来ないことを悲しみながら亡くなったB君を見て,B君の遺族は,A君を相手取り,B君がA君に対して有していた慰謝料請求権を相続したとして訴えを提起しました。この訴えは認められるでしょうか。

 大多数の人は,これは友情の問題であって,慰謝料を請求できるような問題ではないと考えたのではないでしょうか。私もそう思います。
 「法は道徳の最小限」という言葉があります。これは,ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek)という19世紀の有名な法学者が『法・不法及刑罰の社會倫理的意義』(大森英太郎訳,岩波書店(岩波文庫)1936年)の中で述べた言葉です。ご存じの通り,社会を規律するルール(これを社会規範といいます)には法律のほかにも道徳など様々なものがあります。その中で,法律の特徴は,国家権力が命令し,それに違反した者に制裁(サンクション)を加えるという点にあります。こうした意味での法律は,私たちの暮らしのすべてを覆い尽くしているわけではありません。その意味で,法律の守備範囲は「最小限」の部分に限られ,その他の部分は道徳に委ねられるというわけです。
 法律学を学び始めた学生の中には,何でもかんでも法律の問題にしたがる者が見受けられます。デートの約束を破られた腹いせに,「新調した洋服代を返せ。訴えてやる。」と息巻いている学生を見かけると,「そんな了見だから嫌われるのに」とつぶやきたくなるのは,私だけではないはずです。中には,太宰治の『走れメロス』を例に,「先生,もしもメロスがどこかに逃げた場合,そのせいで死罪となった友人の遺族は,どの条文を根拠にメロスを訴えればいいのですか」と聞いてくる学生もいます。学んだばかりの法制度で頭がいっぱいになっているのだと思いますが,「純粋に文学を味わったらいいのに」と感じるのは私だけではないでしょう。こうした学生には,世の中は法律で埋め尽くされているわけではないことを理解してもらうことが必要だと思います。
 しかし,こうした「法は道徳の最小限」という枠組みは,そもそも私たちの暮らしのうちどの部分に命令を加えるべきか,どの部分は道徳に委ねても良いかという評価が前提となっています。時代の違いや国の違いによって,命令の及ぶ範囲は異なっています。このように,法律を「評価規範」として捉えるならば,法律は,命令を及ぼさない部分も含めて「評価」の対象としているという意味で,私たちの世界は法律で覆われていると見ることもできます。この「評価規範」としての法の捉え方は,冒頭に紹介したグルタフ・ラートブルフなどによって強調されました(この問題に関する詳しい考察は,青井秀夫『法理学概説』(有斐閣,2007年)参照)。
 一見すると,意見の対立があるようですが,いずれの考え方も正しいと言えるでしょう。法律という概念を狭く解釈し,国家権力が命令を下しその違反者に制裁を加えるための道具として捉えるならば,法律が社会を覆う範囲はかなり限定的となります。しかし,法律を国家権力がどの部分に命令を下し,どの部分には命令を下さないのかを評価する道具として捉えるならば,社会はすべて法律で覆われていることになります。
 私がテレビでコメントをしていると,時折,条文の解釈だけを求めて来るディレクターや,法律以外のことはしゃべるなと意見を寄せて来る視聴者の方々に遭遇しますが,法律家は本来,森羅万象を法的観点から「評価」する仕事であることを知ったならば,法律家に対する世間の見方も変わってくるのではないでしょうか。


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