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5月







 駅の名前は忘れたが、そこそこ大きな町のホームセンターで若いカップルがガラスに鼻を押し付けて犬とかを見ていた。床があまり清潔ではないペットコーナーの、エアコンの風が直接当たる場所だった。女のほうは犬を飼いたそうで、男はそこまで犬を飼いたくなさそうだった。「ねえ、あのポメちゃん見て」と女が言った。「あたしあの子がいいんだけど。あの灰色のちいこいポメちゃん。ほら、一人で回ってコロコロして。あの子がいいな。あたしあの子にホコリちゃんって名前つけるの。灰色のポメだからホコリちゃん。ねえ、いいと思わない?」男はスマホを弄っている。彼はそのディスプレイ上で黙々と敵の城を攻め落としつづける。それは彼にとって何においても優先すべき、重要な任務なのだ。女は特に気に留める様子もなく、曇ったガラスショーケースに長い爪を這わせながら鼻歌を歌いはじめた。聞いたこともない曲の耳障りなメロディ。はらわたの飛び出した鼠の人形を振り回しながら、ホコリちゃんはマスタード色のおしっこをした。僕はひどく不協的な和音の中に投げ込まれた心持ちがして、やたら幅の狭いエスカレーターを降りて店を出た。5月というのは1年のうちでもっとも退屈だ。しかしその救われない退屈さは、他の月日を相対的に浮かび上がらせることになるのかもしれない。


〈月間『宙』5月号に寄稿〉

編集:さいとうちさと・政井歌
令和4年5月31日 刊行



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