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上手さについて


 最近、何かが上手くなることって結局どういうことなんだっけ、と思うことが多くなって、この文章を書いています。
 10代半ばくらいまでは上手いというのはほとんど速いという意味で、自分が速いかどうかを確かめるために他人のスピードに敏感になる必要があった。でも速い=上手いだとしたら、上手さという言葉はもれなく速さに置き換えられてしまうから、この2つの言葉が持つ意味にはそれぞれに固有の範囲がないとおかしい、と思うようになった。

 上手い、という言葉はたとえば、美術予備校にいた時にたくさん聞いた覚えがある。上手い人はささっと手を動かして、紙の上に迷いなく線を引いていく。あるいは色を塗っていく。こういう時、絵が上手い人はたしかに速い。絵を良くするために、次に何をすべきかわかっているから速く感じる。でも絵というのは見たものをそっくりに描くデッサンだけのことを指すわけではないし、絵によってはここまで描けば完成、というラインが明らかになっていないものもある。絵にとって上手さがいつでも歓迎されるポイントであるかはわからない。上手いという言葉の持つ意味合いも人の数だけ微妙に異なるかもしれない。だから絵が上手いという言葉は、極めて限定された状況の中で発揮される技術についての褒め言葉なのだと思うようになった。

 上手さについてあれこれ考えていると、なんとなくしんみりとしてしまう。その気持ちはたぶん自分の成長というものを上手さが(上手くなっていくことが)何かしらの形で裏付けてくれるのでは、というあまりにも正直な期待によるものなのだけれど、同時に上手さが自分たちを連れていく具体的な世界について、想像力があまりに乏しいことに驚いてしまう。上手いという言葉があるばかりに、自分の欲求に紐づけられた上手くなりたいという漠然とした本能を意識しつつ、その周辺に生まれる繊細な感情を突き止めることなく「上手くなりたい」と言えてしまう。そういう一人一人の無数な欲求に一般的な名前を与えてしまえることが苦しいと考えていた時期があった。

 上手さについて今何が言えるのか、自分でもよくわからない。現代は闇雲に成長を求めていくことが良しとされる世の中ではなくなってきているし、見方によってはあちこちで上手くあることへの揺り戻しが起こっている。それでも何かが上達したいし、上手くなりたいと思うことがある。それはとても自然で平凡な感性らしい。

 一方で自分は下手の横好きというか、傍目には上手くなっているのか定かでない様子で何かをずっと続けていることがあるのだけれど、上手さについての感情はわりとはっきりしている。結局自分は、上達のスピードが人より遅いことをあまり気にしておらず、さっさと上手くなろうとはそこまで考えていないらしい。というよりはそれが自分にとって固有のスピードであったとして、それを無条件に愛せるのか? みたいなことを考えていて、愛せていたらとりあえず大丈夫だということになっている。

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