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きんからきん日記 6/21から6/28


 畑のソヤさんから自家製パンをもらう。これはゼッポリーニというイタリア式のプチ揚げパンを、自宅のパン焼き器で再現したものらしく、見た目は食パンに近いのだが、小山のように膨らんだ生地に鼻を近づけると、潮風にも似た香ばしい匂いがするのだった。ソヤさん曰く、焼き上げてからオリーブオイルに付けるのが最もおいしい食べ方だという。家へ帰ってキッチンに立つ。普通の三徳包丁でやわらかなパンを切り分けようとしてみると、手応えが曖昧で、断面がぎこちなくなってしまった。こういう時のためにギザギザのついたパン切り包丁が要るのだろう。

 個展の会期が終了した。自分の作品を一箇所に集める機会というのは、これまでほとんどなかったので、改めて会場を見回してみるとその点数の多さと煩雑さに、他人事のように驚いてしまう。作品を一つ一つ注意深く手に取れば、そこには確かに自分の過去の実感のようなものが残されているが、そういった記憶でさえも、もうほとんど自分の意識から切り離されていて、遠くのほうに浮かんでいるように思える。自分は制作を繰り返しながら、その都度自分の内側に、作品という他者を立ち上げようと試みているのかもしれない。作品は時間にさらされることで自分を離れて独立し、惑星のように無二の点に変わってしまう。それは少し怖いことだが、だからこそ他人を観察するみたいに自分自身に触れられる。時々はっと、他者の何かに気がつくように自分のことがわかることがある。そういう感覚が得られるものは、他にあまりないのかもしれない。

 翌日は午前中に仕事の打ち合わせをし、新しい漫画のネームを2本描いた。今年は上野と真鶴、そして鎌倉を週に何度も行き来しているので、電車に乗って移動する時間が多い。なので漫画のプロットやゲラの確認、仕事のメールといった事務的な作業を、電車の座席で済ませようと思うのだが、身体が疲れてしまっている時もある。そういう時は無理をせずに、何もしないで走行中の車窓の外を眺める。流れていく住宅地の植え込み、川、鳩、電線、そういうすべての風景を自分の疲弊のメタファーだと考えてみる。疲弊した宇宙の疲弊の国の、疲弊した郊外を風のように走り抜けるJR線。アイロニカルなイメージの連続へ、自分の疲弊を託してしまおうというのが最近の癖だ。

 帰りに近所のコンビニで、リンゴジュースを一つ買う。腕にそれを抱えたまま、横断歩道の歩行者用信号が青になるのを待つ。リンゴジュースって真面目に飲むとけっこう味が整っていて、おいしい。侮れない。リンゴジュースが今いちばん、まっすぐかっこいいのだった。


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