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きんからきん日記 7/19から7/26


7/20

この日はブックマルシェの出店日だったので、イノシシくらいの大きさのキャリーケースを引いて、下北沢へ向かう。中には本がぎっしり詰まっている。バスに乗り込む時に入り口の段差を越えるのも一苦労で、側面の取手と上部の取手を両手でつかんで一気に持ち上げるのだが、本当に取手だけすぽんとちぎれそうなくらい重たい。キャリーケースを引いていると、普段は気にかけないような微妙な段差やちょっとした階段の存在が大きな障害として自分の移動に立ちはだかる。特に渋谷駅で乗り換える時は大変だった。JR線ホームと京王井の頭線のホームは別棟にあるので、一度駅から完全に街中へ出ることになる(本当はおそらく構内に連絡通路があるのだが、なにぶん改札がたくさんあるので、ハチ公口から外に出てしまった)。道に迷い、階段に苦しみながらなんとか京王井の頭線の吉祥寺行きに乗る。

ブックマルシェはたくさんの人でにぎわっていて、普段はそれぞれの場所でそれぞれの出版活動をしている人たちが、隣同士の机で本を売っているのがなんだか不思議だった。初めて顔を合わせる出版社の方や、作家の方、真鶴の個展へ来てくださった方にも会うことができて、人との出会いの多い一日だった。自分の活動を他人に説明する時には、色々な言い方がある。本をつくっていますと言うこともできるし、漫画を描いていますとか、絵を描きながらデザインの仕事をしていますとか切り出すこともできる。ただやっぱりすべての中心というか、根元にあるのは言葉を書くことなのではないかと近頃は思う。それは言葉だけを書くという意味ではなく、言葉を書こうとする時の集中の仕方みたいなものが、絵を描いたり、写真を撮ったり、本をつくったり、他人と向き合ったりする際に、その都度自分の中から引き出されているのだと感じる。だからもちろん言葉を書くことはこれからも続けていきたいし、それ以上に、言葉を書きながら、言葉を書く以外の仕事を続けていきたい。そんなことを思うのだった。

23時過ぎに駅前でタクシーを待っている。タクシー待ちをする列が長すぎて、この時間にここへ並んでいる人たちはみんな、もう自力ではどこへも行けない、ちょっとかわいそうな置物たちなのだ、と思う。口数も少ない。風だけがぬるいロータリーで特にすることもなく、この文章を書いている。


7/23

この日は起きるとすぐ机に向かう。3時間おきに家の周りを歩き、部屋に戻って作業をする。時々食事をとる。そういう、珍しい生態の動物になったような気分だった。


7/25

朝から上野へ向かう。この日は修士1年の前期最後の講評日だった。課題内容はざっくりいうと、上野公園を調べて作品をつくれというもので、調べるというのは客観的な情報を集めてはっきりとした解答を導くということではなく、どちらかというと他人にまだ発見されていない独自の文脈を掘り起こして、そのわからなさと向き合いながら、表現を試みることが重視されているようだった。自分は最終的に24pくらいの漫画短編を描き下ろして、それを冊子にした。これはこれまで描いた漫画作品とは少し毛色の違うもので、上野公園をめぐる自分の妄想(鳩、ランドスケープ、きゅうり、トマト、戦争、ホームレス、平安京、庭)をつなげてキャラクターを立ち上げて、彼らを同時刻に公園で出会わせるという話である。この漫画はまだラフな絵とセリフのネーム状態だが、どこかできちんと形にして外に出せたらと思う。

講評が終わると、8月末に出版される詩集の情報が出版社から公開されていた。詩の世界では、作家が初めて刊行する詩集のことを第一詩集と呼ぶらしく、これは自分の第一詩集になる。本格的に詩を書きはじめたのはたしか、真鶴で暮らしはじめた2022年の8月頃だった。偶然インターネットで見かけた詩人の経歴から、詩を扱う雑誌の投稿欄があることを知り、作品を書いて送るようになる。朝は畑、昼間は図書館や出版の仕事をし、空いた時間に言葉を書いていた。詩と向き合って言葉を触っていると、言葉そのものが炎のような映像や現象であり、意味はよくわからないけど光っていたり、痛かったり、生きていたり死んでいるのがわかる瞬間があって、言葉はそんな風に動かすことができるのか、と知らない窓から外を見るような気持ちになるのだった。

最近の自分は遠目に見ると、文筆(言葉を書く)、イラストレーション(絵や漫画を描く)、出版(デザインや編集をする)という3つの歯車がそれぞれ均等に動いているように思えるが、本当は少し違うのかもしれない。言葉を書くという大きな歯車が中心でいつも静かに回っていて、その遠心力に助けられるかたちで他の歯車も働いている。漫画を描くことや、本をつくることもすべて、言葉の力を受けている。その言葉のいちばん真ん中のあたりに詩があるような気がしている。だから詩は、自分の手仕事を束ねる背骨であり、心臓であり、はたまた眼や指先でもある。それでも詩って、よくわからない。捉えどころがない。自分は詩を書いているけれど、詩のことはまだよくわからない。なので自分が詩を書くときの気分を少しだけ書く。自分は詩を、言葉ではなく風景のようなものだと思っていて、自分が生きているあいだに通過していく感情を、それぞれの風景として記録するために言葉を動かしている。そのためにすでに意味が与えられている言葉を不規則に移動させて集めたり、解散させたり、ぶつけ合ったり重ね合わせたりする。それは草原で動物を集める時の様子に似ているし、庭に草木を植えるようでもある。その時の気分というか、身体の中で鳴っている名前のない音楽がいちばん詩だと思っていて、それが詩だとすると、結果的に書かれたものは詩の去った後の地面の凹みみたいなものだ。でも一般的に詩は、言葉のことを指す用語なので、自分はその凹みの跡を詩として発表する。それは文字で書かれていて、自分にとって本当の詩とは少し違うものだけれど、その文字の群れを見ると自分はいつでもあの気分を思い出すことができる。思い出すための凹みだ。そういう手がかりのことを詩作品と捉えていて、その集まりが詩集です。だから詩集はいろいろな風景が一冊の本に保存されているもので、それはもはや一つの町のような奥行きを持つ箱庭なのかもしれない。そしてそれを他人が覗き込むと、それぞれまったく別の町に行くことができて、それは肉体を伴わない透明な移動だと思う。それが不思議で、自分は他人の詩集を開くことがある。第一詩集のタイトルは『通知センター』といいます。8月末に発売です。よろしくお願いします。


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