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きんからきん日記 7/26から8/2


7/28

この日は図書館の最後の出勤日だった。大学を休学して真鶴へ移った2022年の春から働いていたので、ぜんぶで2年半ほどいたことになる。帰りに司書のUさんがプレゼント的なものをくれて、開けてみると中身は上品なボールペンだった。Uさんは20代の頃、ブックオフ系列の高価買取専門店でアルバイトをしていたらしく、高価な取引が生じる客商売の現場では、客へ差し出すボールペンの銘柄一つとっても重要だという訓示をいただいたのだという。のもとくんもこの先そういう大事な取引があるかもしれないから、良いボールペンは持っておいて損はないよと笑いながら言っていた。つるりとしたボディは細長い黒曜石のようで、側面に金色の縁取りで自分の名前のアルファベットが刻印されていた。


7/29

6時に目覚めて洗濯をまわし、午前中の仕事を終わらせて沼津へ行く。この日の日記は短いエッセイとして、ZINE『日日の灯』vol.5に掲載することにしたので、よかったら読んでみてください。そこまでたいそうなことは書いていないのですが、個人的には気に入っています。表面に絵、裏面に文章という両面のイラストカードとして、夏の旅先からの手紙のような仕上がりです(8/7から本屋・リバーブックスさんの店頭で手に入るので、沼津へ行く折にはぜひ手に取っていただけたら)。自分としても、これは半ば置き手紙のような感覚なのだった。


7/30

朝から次の漫画の絵を描く。町中華屋の厨房でチャーハンが作られている様子を、コマからはみ出さないように描く。こういう少し古びた四角い間取りの室内に、ごちゃごちゃとした食器や調味料が並んでいるのは何だか好きで、眺めているだけで油と煙の匂いがしてくる。

外出する用がない日は、こうして一日中自宅で仕事をしているわけだが、ただ漫然と長時間机に向かっていてもあまりつまらない。椅子にずっと尻をつけて座ったままだと血行も悪くなる。立ち上がらずに座り続けるという習慣は、実はとっても身体に悪いらしい。だから30分おきに席を立って窓のほうへ行く。透明な窓越しに外の日差しの世界を覗き、わざとらしく足を揺さぶりながら短い距離を歩いて椅子のそばまで戻ってくる。そんな調子で開始から3時間が経つと、今度は長めの休憩を取る。だいたいは昼食を取り、外へ出るのだ。この夏は鎌倉に滞在しているが、近所には決まった散歩のコースがあり、10分もあれば一周できる。その道中には中くらいの地味な川がある。この川を自分はどういうわけか気に入って、散歩というより川の観察のための外出になっている。川ではたいていカモか、小魚が浅瀬に細い列をつくっているのが見下ろせるだけだが、運が良いと下流のほうからカワセミが一直線に飛んでくるのに出会うこともある。最近はカメとヘビ、それから大きなカニを見た。川は、こちらがぼーっとしていると何の面白味もないような顔つきなのだが、毎日こまめに見にいくと、必ず随所に変化がある。住んでいる生き物も実に多様で、意外と侮れないのだ。そんな風に川べりに貼り付いていると良い気分転換になる。部屋に帰って、今度は別の作業をする。

夕方に海に行こうと考えていたが、午後4時過ぎに強い雨が一気にはじまって諦めた。海に行くために真鶴の家から持ってきたサンダルは、出番を失い玄関で小型犬のようにうずくまっていた。


8/1

16時まで部屋で仕事をして、歩いて海へ行く。材木座の砂浜には海の家が建ち、ところどころに寝そべったり泳いだりする人がいたが、平日ということもあり人の数はそれほど多くはないようだった。サンダルのまま、波が打ち寄せる場所を歩く。浅瀬の波は、人間の体温と同じくらいぬるかったので、くるぶしを水に浸して歩いていると、自分の体の内側をざぶざぶと移動しているような気分になった。夕方になると日は徐々に傾き、暑さも和らいでくる。砂の上に寝転ぶ。この時間帯の海岸へは、犬の散歩のために訪れる住民が多いようで、さっきから目の前を何度も犬が飼い主を伴って通り過ぎていく。後ろのテントに耳の長い白いチワワに似た子犬がいて、舌を出したまま好奇心ありげにこちらに近いたり、遠くへ去って小便をしたりしている。対岸の丘に日が沈むのを見届けてから家へ帰った。


8/2

夕方に真鶴出版へ行き、畑のそばの事務所で本にサインを書く。それから18時過ぎに、真鶴出版のみんなと車に乗って湯河原の閑静な通りに面した古民家カフェ、GOOD DAY CAFEへ夜ご飯を食べに行った。この会は『海のまちに暮らす』の出版祝いと3号店の完成祝いを兼ねての打ち上げで、地物を使ったおまかせのコース料理を囲みながら、お酒も飲んだ。前菜のサラダには薄くスライスした桃とメロンが添えられていて、これがまず美味しかった。桃は今が美味しい時期だというから、ちょっと高いけど食べておいたほうがいいよみたいな話もしていた気がする。桃というと自分は前に知人に聞いた話を思い出す。桃の香りと銘打たれた香水には色々あるが、ブランドごとに桃の特徴の抽出の仕方が異なるから、ぜんぶ微妙に違った香りとして世の中に出回っている。桃の香水は奥が深いんだよとその人は言い、桃の香りを見つけるたびに、テスター用の少量のパッケージを収集しているらしかった。それから料理はヒラメのカルパッチョ、グラタン、豆のコロッケ(自家製の豆乳マヨネーズ付き)、オクラと鱧の天ぷら、夏野菜のボロネーゼ。たくさんあったが写真を撮っていないので正確には覚えていない。1回目に手洗いに行った時、個室の照明スイッチの位置がわからずに、真っ暗なまま便座に座っているだけの時間があり、ドアの隙間から店内の照明がわずかに差し込み、トイレットペーパーホルダーの金属部分が一点だけ光っていた。壁の向こうから話し声や笑い声が漏れ出てくるのを、用を足しながら聞いていて、それは不思議な体験だった。とにかく久しぶりに全員でゆっくりご飯を食べることができて、それがやっぱり嬉しいのだった。自分がどこへ行って何をしていても、真鶴出版は変わらない場所として存在してくれていて、そのような気配は自分にとって初めて感じる種類の心強さなのだった。この日はご馳走になり、真鶴駅で降ろしてもらった。






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