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圧倒的他者視点の魅力ライターします。までの道のり。その2。

ご来訪ありがとうございます。

私が感じたままに魅力を綴る、魅力ライターあそゆかです。

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ライターとしてご依頼をいただくようになって、どうしてライターになったの?そう聞かれることが増えてきたので、マイストーリーを書き始めました。

最初から読みたい方はこちらからどうぞ。

圧倒的言葉の被曝量が多かった子ども時代。そして優等生街道を直走った末の、高校入学と同時に感じた「どうして勉強をしないといけないのか?」と言う疑問。

そこから、私はいわゆる・・・・適応できない子、ドロップアウトした子になっていった気がします。(とはいえ、悪さをやらかすタイプではなく。)

それまで、祖母のいう「あなたはブスなんだから勉強くらいできないとダメ」「女でも頭が良くないと、大学くらいは行きなさい」それを信じていたのに、「どうして?」と言う疑問の前に、それは悲しいほどに意味を持たなかった。

そこから、これまでやって来たことに対する熱意のようなものが、一気に失われていきます。

奇しくもこの頃から、実家では両親の不仲が露呈。もともと、嫁姑関係もかなり厳しいものがあり、父と祖母(父の母)の間にも何かしらの確執があり、単身赴任先で父の不倫が発覚。家族関係が一気に冷え込み、静かなる修羅場になっていきました。

あの時私が思ったこと。不倫という言葉で父を悪者にすることは簡単ですが、「お父さんが恋をした」と思えば、それは善悪の問題ではない。父にとっては、運命の人との出会いでもあるかもしれないわけです。

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父には父の、思いがあり理由があり、人生があり

母には母の、そして祖母には祖母の、みんなの、理由があり人生がある

そう、きっと、わけがある。

誰も悪者にしたくないのに、誰もが理解し合えず、怒りや不満を我慢で押し込め、その顔には笑顔がなく、こんなはずじゃなかった、という恨みとも哀しみとも苦しさともつかない、幸福ではないことだけはわかる、そんな表情ばかりが見える

その家族の間で、私はどうしたらいいんだろうかと、そんなことを考え続ける日々だった、高校生時代。

誰も笑うことのない家に帰ることは当時は感情を消していないとやりきれないようなもので、できるだけ、「自分ごと」から離れて、世界を客観的に見ようとするように。自分の気持ちを静かに沈めながら考えるのは、どうしたら祖母や母が楽になるんだろう、父は幸せなんだろう、みんなが認め合えるのだろう、どこに、和解があるのだろうか、ということ。

そう願うのとは裏腹に、家族関係は悪化の一途。祖母が不倫女性の元に刃物を持って押し入ろうとしたり、もうこんな人生はいやだ、死んでやる、お前も一緒に死ねばいい、なんて私に刃物を突きつけたり(血がアツすぎる)、父と直接対話したくない母が、「娘(=私)という最終兵器」を父の元に送り込んで偵察しようとしたり(あざといがすぎる) 自由人気質だったのか、私がそんな特使として来たとも知らない父は、嬉しそうに自分の恋人を私に引き合わせたり。(ほんとなんなんだ、でもきっと、父は嬉しかったのだろう)いろんなことがヒッチャカメッチャカだったあの頃。

「普通は」なんて言葉では何の説明もつかない世界に、私はいました。

そしていつも考えていたのです。自分がどうしたいか、ではなく、周りのためにどうしたらいいか、ばかりを。

そんな中で大きな疑問になったこと

それは

「境遇は選べず、どうして人の幸福度にはこんなにも違いがあるのだろうか」

家に帰ることさえ、どこか重い気持ちになる私の一方で、家が、家族が笑顔に溢れ大好きで、お金にも恵まれ、満たされて幸せに楽しそうに日々を生きてる人もいる。

   

どうして??? なんでなの???

    

私は何もわがままを言ったはずでもないのに、どうして、普通の家族の幸せさえ、私は得られなくて、勉強する意味も生きる意味もわからないのだろう、一体、私の何が、いけないんだろう、どうしてなんだろう

そんな答えの出ない疑問が大きくなり、それは「人を理解したい」「生きるということをわかりたい」という気持ちとなって、ふくらんでいきます。

今ここで起きていることにも、きっと何か理由があるはずだ。だとしたら私はそれを知りたい。理解したい。と。


勉強することへの意欲もなく、家庭という場所の安寧も得られなかった当時、これ以上頑張って勉強する、なんていう体力も気力もなかったけれど、(いや、もうきっと、優等生に飽き飽きしてた)それでも人を理解したいという気持ちが、私の進路を決める手がかりとなって

私は「受験勉強しないでも合格できる、心理学の学べる大学」を探し本当にノー勉で受験、そして合格。


こんなことを書くと、私はずっと不幸だったのか、と思われるかもしれませんが、実はそうでもないと、今は思うのです。

確かに家庭の状況としては、とても心苦しいものがあったけれど、その環境の中でも、祖母や母が私に対して「彼女たちなりの愛情を注いでくれていたこと」は今なら十分すぎるほどにわかるし、「それぞれの愛し方」があったし、もっというと「愛し方がちょっと下手だっただけ」「私の期待する愛し方とは、ちょっと違っていただけ」

そして、みんな「家族」という枠の中では苦しいことがあっても、それぞれの日々を生きている中に、喜びもあり「不幸100」では、なかった。

自分の息子の不貞に怒り狂い、その妻である私の母を責める祖母は、そうは言ってもお留守番をして、家のことをしてくれ、私の帰りを「おかえり」と迎えてくれたし、たくさんのおいしい手作りのごはんを食べさせてくれ、一方でマイボールを持って、自転車をかっ飛ばしてボーリング場に行き、ハイスコアを出しまくり、老齢にして有名人だったし、

母は母で、会社に行くことが私時間と、喜んで家を出ていっていたし、料亭で掛け持ちで仕事してたり、鬱々とした気持ちを、日本画に表現してひたすら絵を描いていたり、(襖2枚分はあるだろうという大きなキャンバスに、ものすごく陰鬱な色味の絵をやたら上手く描いて、それが呪いの水墨画のようで私は慄いた苦笑)みんなそれぞれに「自分の世界」を持っていたのです。

そして私は、高校で初めてしたバイト先では本当に可愛がってもらったし、「お前みたいな世間知らずは初めてだ」と雑巾の絞り方ひとつから教えてもらいました。

そこで出会った、ちょっとワル風な定時制に通う男の子が「お前、俺と付き合え」というので、そうか、これが付き合うということなのか、と付き合い始め笑 そのご両親が、本当に、私を可愛がってくださった。まるで自分の子のように、家に呼んで、一緒にご飯を食べて、家族団欒そのままに、同じ時間を過ごしてくれていたし、

大学で出会った友人たちは本当におおらかで自由で、狭い世界にいた私をいろんなところに引っ張り回してくれたし、親の世界なんて蹴散らした先に、面白くて新しくて、いろんな世界があるんだって教えてくれました。

恋が破れたのかなんなのか、突然父が帰って来たと思ったら、しばらくして今度は母が「私はもう耐えられないから、明日家を出るね」と、突然の家出。家族にバレないよう全ての準備を秘密裏に1人で虎視眈々と進め(それが当時はとても楽しかったらしい。)本当に、次の日出ていってしまった。

突然戻って来た父と共に取り残され、どう関係をとったらいいかわからない私はますます居場所としての「家」がわからなくなり、「自分の本来の家族」はどんどんバラバラになりどうしようもなく失われていく、もう悲劇を過ぎてコメディにするしかないような、壊滅的な時間の中にいたけれど、

でも、あの時私にはそれを埋めるに値するほどの「血の繋がりがないところで生まれる、家族のような愛情ややさしさ」を、本当にたくさんたくさん、与えられていました。

愛されてないと、思っていたけれど、ずっと孤独を感じていて、何度も絶望したけれど、その実、世界から愛され守られていたのです、きっと。

だから、悲しいことや思い通りにならないこと、家族が不仲であることの心苦しさはあったとしても

でも、その中ですら、父も母も祖母も、私を愛していたと思うし、

私には私に与えられた幸せがあって、笑って過ごした日もたくさんあって、それはかけがえのないものなのだと、当時は「家族に愛されていない(と感じる自分の心の苦しさ)」ばかりに目がいってそれに気づいてなかったけれど、そうして満たしてくれたものがあるからこそ、やけになったり腐ることなくあの日々を生きていられたのだと、今なら十分すぎるほどわかるし、あの当時関わってくださった方々には本当に、感謝をしている今です。

そして、私はあの当時、きっとずっと、肌で、心で、それを「理解はしていなくても体感していた」のです。

家族という括りを超えた、もっと大きな世界で、深くつながる優しさや愛情はあるのだということ、そして家族だから、親だから、子だからという、関係性やジャッジを超えたところでしか理解できないことも、たくさん、たくさんあるんだということを。いや、それしかないんだ、ってことを、この肌で、この感覚で、感じ続けていた。

役割の中だけで生きれるほど、人間は簡単ではない。

世界は理不尽で不平等で理解し難い、でもきっと、そこにこそ、世界の真実がある

今私は、「寛容でおおらかでジャッジがないからこそ、あそゆかさんに話せることがたくさんある」と本当に多くの方に言っていただけるのですが、それは、この時の体験なくしては得られなかったことでしょう。

家族という枠の中だけで、ごく当然の関係性と愛情の中でしか生きていなかったら、この寛容性はきっと身に付かなかった。

不倫を悪と批判し、家族と他者をもっと明確に振り分け、その態度にも「内と外」がはっきりとしていたに違いありません。

父親として「父という役割を引き受けた1人の人」を一方的に見て、母親という一つの役割を引き受けた人に「母親であれ」と期待してやまなかったでしょう。

幸せという、家族という、愛情という「正しさの斧」を持っていたような気がするのです。

だから、私に与えられた経験というのは、何も、何一つ、無駄ではなくて、私を私たらしめるために、いてくれたのだろうなと。

  

全ての出来事にはわけがあり、関係性を超えたところ、役割、善悪、常識と言った、あらゆるカテゴライズやジャッジを超えた向こうに、世界がある


10代半ばでこの体験をしたことは、後々生きていく上で、ライターとして人や物事を見て描いていく上で、非常に重要な意味を持っている気がしてなりません。

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長くなってしまったので、マイストーリー2部はここで一旦、おしまい。

続きは、こちら。


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