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怖かったけれど

何とか手紙を書き終えた。

パソコンで打ち込んだ文章を、白い便箋に書き写していった。

何枚くらいになっただろう、覚えてはいないけれど、右手が痛くて、封筒もぱんぱんだったので、10枚以上はあったと思う。

・・・書き終えてしまった。

いつ、渡そう。

書き終えることは出来たけれど、正直、渡せる気がしなかった。

こんな手紙を渡したら本当に出て行けと言われてしまうかも知れない、とその時は本気で思っていた。

書き終えた手紙を自分の部屋の引き出しに入れて、毎日渡すタイミングを計った。

寝る直前が良いかな、後は寝るだけだから会話をしなくて良いし・・・

土曜日にしようか?日曜日は姉が姪と甥を連れてくるから二人きりじゃないし・・・

そんなことを考えて、手紙を持って母に近付いて、渡さず部屋に持ち帰って、を何回繰り返したか分からない。

けれど、12月の初旬、やっと渡すことが出来た。

何度も持ったり置いたりした封筒は、しわしわになっていた。

母は驚いていたけれど「また直接ちゃんと言うからとりあえず読んで」とだけ伝えて、すぐに母の部屋を出て自分のベッドに潜り込んだ。

心臓が出てきそうなくらい、吐きそうなくらい、ドキドキしていた。

「あの手紙を読んだ母はどう思うだろう」

「怒るだろうか」

「失望するだろうか」

そんなことばかり考えた。

でももう渡してしまったんだから。

今更考えたって仕方がないんだ。

不安とあきらめの入り混じった気持ちと、

手紙を渡すことが出来たという達成感の中、無理やり目を閉じて眠った。

次の日。

朝目が覚めて、リビングに降りた。

少しぎこちなかったけれど、普通に過ごしていたと思う。

まず、渡した手紙に対して想像していた「怒り」や「拒否」がなかった事に本当にほっとした。

何より、自分の気持ちがものすごく軽かった。

本当の気持ちを伝えても、拒否されなかった

本当の気持ちを伝えても、受け入れてもらえた

何を言ったって、何をしたって、受け入れてもらえるんだ

そう信じることが出来た途端に、中学校の頃からずっと胸の中にあった、モヤモヤした、鉛のように重たく冷たかったものが無くなった気がした。

好きな音楽を否定されることが怖くて、目の前で聴くことが出来なかったことも

自分のしていることが否定されることが怖くて、階段を上る足音が聞こえたら慌てて隠していたことも

自分がやりたいことは、母が仕事から帰ってくるまでの時間で済ませなければ、という圧迫感も

「どっちが良い?」と聞かれて、母の望む答えを出来る自信がなくて「どっちでも良いよ」が口癖になってしまったことも

自分の感情を見せることが怖くて、笑ったり泣いたりを目の前で普通に出来なかったことも

「母が」どう思うか、が行動の源だった。

でも、何をしたって受け入れてもらえるなら、そんなこと、考える必要なんてないじゃないか。

どう思うか、なんて、もうわかったじゃないか。

私が何をしたって、母は「受け入れてくれる」んだ。

「私が」本当にしたいこと、「私が」言いたいこと、「私の」気持ち、「私の」望むもの。

「私の」人生を、「私が」望む方へ。

「誰かが」どう思うだろう、なんてどうでもいい。

すぐにはそう思えないかも知れないけれど、それでも。

私の人生の主語は「誰か」じゃない、「私」だ。

この手紙を書いて、実際に母に渡すことで得たものは本当に大きかった。

でも、今まで少しずつ少しずつ自分と向き合って、

自分の嫌な所も自覚して、辛かった出来事をもう一度受け取って、

とことん向き合ったからこそ、自分の気持ちを言葉になおすことが出来たし

それをせずに手紙だけを書いていても、ここまで解放されたような

目の前が眩しいくらい明るくなるような気持ちにはならなかったと思う。

本当に、全部全部、無駄じゃなかった。

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