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映画には“文法”も規範的なスタイルもない

 たぶん今でも少なからぬ映画ファン(特にオールド映画ファン)が錯覚していると思うので、しつこく強調しておきましょう。映画には文法などありません。規範的スタイルもありません。物語ることを通じて進化しつづけきた劇映画の標準的スタイルというべきものはありますが、その標準的スタイルは、現在では規範と呼べるほどの拘束力をもっていません。ましてや、自然言語の文法のように、それを守らなければ意味の通じる表現が不可能であるような厳密な規則など、あったためしがないのです。
 この事実は、皮肉なことに、芸術性がないと思われている(実際に殆どの場合はそうなのですが)、いわゆるPOV視点だけのホラー映画やファウンドフッテージ形式のB級映画が証明しています。映画が物語世界を観客に提示するためには、そのような型破りの方法でも十分なのです。

 劇映画の標準的スタイルの基本形は、サイレント時代から1940年頃までに出来上がっていました。その原則は次のような単純なものです。
 さまざまなショットサイズを組み合わせ、スクリーン上の出来事が時間と空間の連続性のなかで展開してゆく錯覚を観客に与えること、そして、物語を効率的に語るために時間経過や複数の出来事の同時進行を意味する編集上のルールを定めておくこと。
 たったこれだけです。具体的な“ルール”は、サイレント時代にD.W.グリフィス、レフ・クレショフ、セルゲイ・エイゼンシュテインらによって考案され、理論化されています。時間と空間の連続性を彼らより強調したのがフリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウやウィリアム・ワイラーらであり、それを理論化したのが批評家アンドレ・バザンです。このすべては前世紀の50年代が終わるまでに起きたことです。
 物語内容や物語世界の描かれていない部分は、観客が想像力を発揮して勝手に補完してくれます(ただし、編集、照明、俳優の演技の巧拙によっては、観客がその作業を放棄する可能性もあります)。しかしハリウッド映画産業は、観客の想像力を侮っていました。サイレント映画の成熟期である1920年代、そしてハリウッドのスタジオシステムの全盛期である1930年代から50年代にかけて、劇映画の標準的スタイルには、前記の基本原則にとって必須とは言えないさまざまな補助的手法が付け加わりました。シーンを終える際に登場人物の顔やあれこれの物体に観客の注意を向けるアイリスアウト、短い時間経過を示すためのオーヴァーラップ、長い時間経過を示すためのフェイドアウト、人々の活気ある(または強制された忙しない)活動を示すためのモンタージュ・シークエンス、シーン転換のリズムを強調するワイプ、シーンやエピソードに特定の雰囲気を与える控え目な映画音楽、登場人物の「内面の声」を示すナレーション、ニュース映画を想起させる説明的ナレーション。
 これらの補助的手法はどれも、映画が物語を提示するために必ずしも必要なものではありません。むしろ、これらの手法のうち、アイリスアウトを除くほとんどすべてを用いている40年代のハリウッド映画は、現在では「バロック的」な人工性を感じさせます。1980年代までに、“作家の映画”ではこれらの手法が次第に使われなくなっていきました。そのほうがイメージのリアリティが保障されると分かったからです。もちろん、現在でも時間経過を示すオーヴァーラップやフェイドアウトを用いる映画作家は少なくないのですが、70年以上前のように“規範”として意識されているわけではありません。
 私は最近、P.T.アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)を観直して気づいたのですが、あの作品には時間経過を表すためのオーヴァーラップが用いられており、それが作品にやや保守的な印象を与えています。あのように冷徹なリアリズムのドラマでは、オーヴァーラップは余計な装飾のように見えるのです。一方、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』(99)やリンチの『マルホランド・ドライブ』(2001)では、オーヴァーラップによるショットつなぎが、時間経過の記号ではなく物語世界の夢幻的な性格を暗示するために用いられています。

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