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7月読書会後記

今月も恒例のオンライン読書会が開催された。今回はそれぞれのメンバーによる紹介形式。参加メンバーはレギュラーメンバー6名に加えて、今回初参加の方を合わせた7名で行われた。たまたま6名がレギュラー化しただけで、もともとメンバー流動型の読書会。新メンバーはとても嬉しい。新規参加者は随時募集中です。

例によって読書会の雰囲気を伝えるというよりは、一参加者の頭の中だと思ってお読みください。

一人目。

テクノロジー化、デジタル化に向けた国家的なプロジェクトにも参加していたという筆者。「今」を知るのにふさわしい本だ。

紹介後のやり取りでは、「テクノロジーに取り残される人」はどうなるのかという問題が挙げられた。先月の30日から「マイナポイント第2弾」が打ち出されている。スマホを使いこなすような現役世代なら、電子決済サービスと紐付けたり、健康保険証を登録したり、公金受取口座を指定することなど造作もないだろう。が、高齢者はどうか。やっとスマホを持つようになったか、下手をすると持っていないかもしれない。当然、マイナポイントは受け取れない。

マイナポイント事業自体は意義深い取組みだとは思うが、一人あたり2万円を配るという少々強引なやり方で押し進めているのが現状だ。普及が遅れている以上致し方ない部分はあるのだろうが、そこからも漏れてしまう人たち=国から2万円が貰えることすら知らない人たち、貰いたいけど貰い方がわからない人たちをどのように取り込むかは、常に考えておく必要がある。

二人目。私の紹介本。

社会学の大著にして名著、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』。がNHKの番組『100分de名著』で紹介された時のテキストである。『ディスタンクシオン』の原著はいつか読んでみたいと思うのだが、分厚い上に難解であるとの情報を得ており、いまだに尻込みしている。とはいえ、大学時代に友人から教えてもらった本書のエッセンスだけで大変衝撃を受け、100分de名著で紹介されたときは夢中で観たものだ。

内容を非常に簡単に説明すると、自分が自由に選び取っていると思っている「趣味嗜好」は、実は社会的な制約の中でほとんど決められたものでしかないことを暴いた本である。わかりやすい例だと「クラシック音楽」だ。バッハが好きだという人は、高所得層や名家の生まれであることが多い。幼少期から身の回りにクラシック音楽があり、それを聴くことがごく当たり前の環境にいること。バッハの音楽が素晴らしいものだと、何不自由なく感じ取れる素養・文化・習慣で育つこと。そのためには、それなりの階級にいて、それなりの文化的な環境があり、それなりの素養を持った両親が不可欠なのである。もちろんごく稀にそうでない人もいるだろうが、一般論で言えばそれが事実だ。

私自身、クラシック音楽の世界に片足を突っ込んでいた。たまたま中学に入ってからヴァイオリンを始め、たまたま入り込んでしまった世界だったが、そこでみたのは本当のハイソサエティだったのだ。月二・三回はバレエを観に行く人がいた。ワーグナーを、ブルックナーを心から愛する人がいた。文化的下地が違いすぎた。

自らが好きで選んでいると思っているものは、実は社会的な制約の下で選ばされているに過ぎない。とてもショッキングな指摘ではあるが、これを知った以上は逆手に取ることだってできる。直感で「好きだ」と思えなくとも、自分で意識して新たな世界に飛び込んでみることはできるはずだ。別にクラシック音楽である必要はない。ありとあらゆる物事に興味を持つこと、それが「好きという不自由」を超えた何かをもたらしてくれるに違いない。

三人目。

戦後についてまとめられている本なのは当然として、そもそも「戦後」とはいつのことか、いつ始まったのか、今も続いているのかそれとも終わったのか、一歩踏み込んだ視点で問いかけてくる本だそうだ。

終戦はいつかと聞かれると私たちの多くは「1945年8月15日」だと答えるだろうが、日本が降伏文書に調印したのは1945年9月2日のことだ。「終戦」ひとつとっても、実は解釈の余地があることがわかる。さらに戦後と言われると、「1945年8月15日以降」と答える人が多いだろうが、それなら2022年になった今でも戦後なのか。いつまで「あの戦争」を意識し続けるのかが問題になる。(「あの戦争」も太平洋戦争だったり、大東亜戦争だったりと時代によって呼称が移り変わっている。)歴史認識とは、なかなかに興味深いテーマなのである。

この話を聞いて私が思い出したのが、先月発表された内閣府の『男女共同参画白書』である。

家族のあり方や結婚観が多様化し、いつまでも「昭和の家族モデル」に引きずられてはいけない、「もはや昭和ではない」というキャッチフレーズが話題となり、ニュースにもなった。

このニュースを見たときに持った違和感は、「いやいや、今更何を言っているんだ」である。昭和ではないに決まっているどころか、平成すら通り過ぎたのだ。わざわざ「昭和ではない」と強調するところに、いかに日本人が昭和に引きずられているのかが現れている。昭和が忘れられない、昭和に還りたいと思うのは結構だが、平成世代の私からすると知ったことではない。(だって知らないのだから。)今は昭和ではないどころか、平成ですらない。同じ令和を生きる日本人として、変わるべきところはスパッと変わってほしいものである。

四人目。

初参加の方による紹介。高校生の時に読んで衝撃を受けたとのことであった。

バブル期に書かれたバブル崩壊後の世界。もちろん現実は小説の通りになったわけではないが、バブル崩壊を知っている我々が読んでも楽しめるほど、リアルな部分が多々あるという。紹介者にとっては「人生のバイブル」と話していただけあって、話しぶりにも大変熱が入っており、これは手に入れておかねばと思わされた。

参加メンバーには(私を含めて)同著者の『限りなく透明に近いブルー』を読んでいる人がいて、少しばかり盛り上がった。酒と女とドラッグの三拍子揃った圧倒的な退廃生活を描いており、実話でないと書けないと思わされるほどのリアリティと、実話だとすれば筆者はもう死んでいるのではと思わされる壮絶な内容に、頭がパニックになった思い出。あまりに凄すぎて、「天才っているんだな」と思ったし、「このレベルの小説を喰らうと身体が保たない」と思うにいたって、それ以来同著者の本は読んでこなかったくらいだ。ここで知ったのも何かの縁。覚悟を決めて読むときが来たのかもしれない。

五人目。

いつも経済小説や経済学の本を紹介していただく方から。

セールスコピーは「中間層が喰われる」。我々読書会メンバーもなんだかんだで中間層に位置しているとは思われるが、現代社会はその中間層が消え、高所得層と低所得層に二極化しているのではないかというのがこの本の主題だ。

紹介者は給与明細を見るにつけ、結構な額を引かれているなと思うという。その上に消費税10%が乗る。稼いだ金の実質三割ほどが引かれるなかで、今一度国家財政から個人の家計まで考えるきっかけになったようだ。

私自身、話を聞きながらTwitterでこんなツイートを見かけたのを思い出した。

党派的な言説はさておくとして、所得云々関わらず、個々の負担が増しているのは確かなことである。ぼーっとしていると状況はますます悪くなってしまうに違いない。

六人目。

写真と小文から成る本。筆者は薬草店を営んでおり、自身の経験を織り交ぜながら、香りの世界へいざなう。

以前、紹介者自身も「香り」についての記事をnoteに書いていた。

私自身はそれほど「香り」を意識してこなかったが、無印良品や東急ストアに行けば「アロマ」を売っていたりするわけだし、意識的に香りを生活に取り込んでいる人はかなりいるのだろう。私はコーヒーが好きだが、コーヒーなんて香りを作るために飲んでいるようなものだ。休日の朝に挽き立てコーヒーの香りがあるだけで元気が出る。

こんな短歌がある。

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし/寺山修司

むかし学校の先生といえば、煙草とコーヒーの匂いだった。煙草とコーヒーの匂いに満ちた職員室は、いかにも大人な空間だという気にさせられたものだ。紹介者も言っていたが、もっとも思い出を想起させるのは香りなのではないか。もっとも、今の職員室から煙草の匂いはしないだろうが。

七人目。

紹介者は最近、伝えるということの精度をより高めたいと感じているそうだ。仕事におけるコミュニケーションエラーを減らすため、論理的に話せるようになること。そこで、わかりやすさに定評のある哲学者・野矢茂樹の本だったようである。

紹介後のやり取りでは、身近なコミュニケーションエラーの話や、文章の読解力についての話になった。

「国語教育」については、しばしば「文章の解釈は人それぞれ」だとか、「選択肢があること自体がおかしい」など批判とされることがある。

先の紹介者も以前の読書会でこんな本を紹介していた。

この作品も国語教育への皮肉から、入試問題をおもしろおかしくパロディに仕立てている。

他方で、昨今のSNSでは、到底「解釈」とはいえない「誤読」を堂々と展開する人々が一定数存在することが問題視されている。論理的に理解すること、文章が普通に読めるということ、これは解釈以前の問題であり、国語教育はそこをなんとかするためにあるのだ、という結論でひとしきり盛り上がった。

以上、7名で8冊。今回はひとり多かったということもあり、その分さらに濃い読書会だったと思う。このレビューも4,000字に及ぶ。キツかった…。

次回は再び課題図書設定型で開催される。本はこちら。

もう何年も続いている読書会だが、ここにきてこれ以上ないくらい読書会っぽい選書。むかし『銀河鉄道の夜』をやって以来の純文学だ。たしか。

先ほどの「誤読」の話だが、読む文章によっても変わってくるという意見も出ていた。論文を読むのと小説を読むのとでは話が違う。論文は正確に読み取る必要があるが、文学については読み手によって感じ方はそれぞれだし、むしろそうなるように書かれている。せっかく大勢で読むのだ、多様な解釈を期待したいものである。

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