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肖像 ~東日本大震災・フクシマ~

鈴木暢弘先生

 福島県郡山市にお住まいの鈴木暢弘先生をお尋ねしたのは、6月14日木曜日の午後。鈴木先生の治療院『はり・灸・接骨・快生堂』が木曜日の午後はお休みだとうかがっていたからでした。
 当日は朝から綺麗な空で、清々しく晴れた梅雨の合間。
 ナビを設定して行ったにも関わらず、何故か入る通りを間違えて一旦通り過ぎてしまい、途中で引き返してあちこち曲がりくねってようやく辿りつく始末。いつでもどこでも方向音痴は健在なのであった…。
 13時のお約束がちょっと早めに着いてしまったにも関わらず、鈴木先生は穏やかな笑顔で快く出迎えてくださいました。
 実は、メルマガ掲載のためにNPO代表理事が原稿をお願いしたことがあったのですが、それはいろいろあって記事に出来なかったため、「これは直接お会いしてお話しをお聞きしたい」ということになり、メルマガ担当が図々しくも福島まで赴くことになった次第であった。
 ところで、鈴木先生を直接ご存じない会員さんのために先生の印象を描写してみよう。
 まず、第一印象は、「おお、鍼灸師の先生だ!」という感じ。ヒトは職業に寄って外見の空気もある程度の性格も形作られてくるものだが、鈴木先生はまさに「ベテランの鍼灸師」というお顔をなさっていた。「今日はどうなさいましたか~?」とすでにその空気がおっしゃっている。
 お顔立ちが柔らかく、全体の印象が丸い。いや、体型じゃありませんよ! 空気が丸いんです。お間違えなく!
 そして、お話しをうかがうにつれて先生の名医ぶりもどんどん明らかになっていった。
 
 まずは「鈴木先生」の成り立ちを。
 高校卒業後、「なんとなく」赤門鍼灸柔整専門学校へ進学。ここで、「鍼灸師になりたいとお考えになった理由とか、何か転機とかございますか?」の質問に対して、先生はほんとうに「いや、なんだろうね。なんとなく」とおっしゃった。でも、その「なんとなく」って人生には大事かも知れないと、今、素晴らしい先生としてご活躍の鈴木先生にお会いして感じた。
 赤門というより、東北は、経絡治療の先生が多いので「先生は中医なんですよね?」という不躾な質問から、お父様の治療をする過程で経絡治療から中医に転向されたことをお聞きした。吉岡章先生に、お父様を中医で治療したいただき、その頃、末期癌の緩和ケアを教えるために来日されていた呂琦先生にご一緒に師事されて(講習会に参加された)、その後、ずっと勉強会などを続けながら中医で施術をされていらしたそうだ。
 中国伝承医学会副代表、それから障がい者自助まゆみ会顧問などを歴任される過程で、障害者とも数多く関わり、多くの治験をお持ちで、7年半前の東北の震災の際には、郡山養護学校に避難されていらした多くの障害をお持ちの方々へのボランティア施術も行いました。
「障害者支援に関わるるようになった背景というかきっかけは何だったのですか?」という質問には。
「いや、治療院に他を断られた障害者の方々が来るようになったから」
 それから、自助まゆみ会の代表の方とつながり、スポーツイベントなどがあれば連絡があり、そこへ施術に行ったりするようになって、震災のときにもボランティアを行う下地が出来あがっていたようです。
 ボランティア施術は養護学校へ3~4回くらい、その後、日鍼会のボランティアがビッグパレットで始まり、そちらへも施術に行ったそうです。

 ここで、震災関連のもっとも生々しいお話しを。
 震災で、福島県の場合、どうしても切り離して考えられないのが「原発事故」です。これは、日本全国のみならず、世界中でイコールとして捉えてしまっている負の歴史です。
 水素爆発が起こったときは、「本気で怖かったです」と鈴木先生はおっしゃった。「ガソリンが手に入らなかったけど、100kmくらいは走れる分を残しておきました」「逃げるためですか?」「逃げるためです。もう、ボランティアどころじゃなかったです」
 そして、現在のことについて印象に残ったのは「いなきゃいけないからここにいるんじゃなくて、普通にいるだけ」。
 原発のことについても、すごく勉強されて、2~3年くらいは周囲の人たちと数限りない議論を尽くされたそうだ。そして、最終的に「どうしようもない」という、達観・俯瞰というのだろうか、すごく遠くを旅して戻ってきた方々が神の目線のように外からこの地を見つめるように、「再稼働もね」とほんとうに淡々とおっしゃった。
「原発があるんだったら、ただあるだけじゃなくて、電気でも作れば? って思う」と。
 稼働している原発のところに、直下型地震なんかが起こったら大変では? という質問には「廃炉作業の途中のところに地震が起こっても同じでしょ?」と。廃炉にすること自体もすごく大変で時間が掛かって、もうそこに在るものは、どうしようもないのだと。
 円を描くように、と先生はおっしゃった。ここから出発して、(原発について)いろいろなことを勉強し、議論を戦わせ、語りつくして手を尽くして、またここ(円の出発部分)に戻ってきたのだ、と。
 だから、先生はただただ淡々と日常を尽くしていらっしゃるんだなぁ、と思った。
「放射能を気にしても仕方がないでしょ。避難している人たちが、涙ながらに放射能がすっかり綺麗にならないと怖くて子どもを連れて帰れないと訴えるけど、そんなの絶対無理でしょう」
 無理だと思います。チェルノブイリがそれを証明しております。綺麗になることを条件とするなら、永遠に無理だと思ってしまいます。これは、他県のニンゲンの他人事論というよりも、現実です。そして、福島県にお住まいの鈴木先生が、そうおっしゃっているのです。
 それから、もっと生々しいお金の話もちょっとさせていただきます。これは実は非常に迷いましたが、「原発の町」の抱える苦悩と複雑な感情の正体だと思いますので。
 津波被害者と原発避難者の違い。
 それは、東電からの補償金があるかないかです。避難地域に指定されて避難した方々には東電からの賠償金が毎月支給されています。その金額は、へえ、というほど多いと感じました。
「仕事を再開して収入を得るより、賠償金をもらっていた方が楽」と、言わせてしまうほどだそうです。
 それから、双葉町、大熊町、富岡町の避難所にはボランティアに行きたくなかった。川俣町だから行った、と鈴木先生はおっしゃっいました。つまり、原発の避難者には補償金が出ているため、必要ないだろう、ということだったそうです。
 ビッグパレットのボランティアが1カ月で皆引いたのも、同じ理由だったとのこと。
 先生が先月直接書いてくださった原稿を転載させていただきます。

「本宮市での活動も、おかげさまで14回目を迎えます。元々は私が川俣での活動に参加した際、活動の場所で苦労されている、という話を聞き「本宮市ならなんとかなりますよ」と言ったのがきっかけです。
 関連するので少しだけ震災時のお話を、フクシマは事情が少しだけ複雑でしたから・・・
 震災後、郡山にも原発事故で、双葉郡などから体育館や公民館などに大勢の方が避難してきました。当然、鍼灸師会、柔整師会、鍼灸マッサージ師会によりボランティア活動がはじまりました、私は障碍者スポーツの福島県のトレーナーをしていた関係で、養護学校などへのケア活動があったため、あまり参加は出来ませんでした。
 原発が少し落ち着いた2~3ケ月後に福島県内の団体はほぼ活動を終えました。
 一部の避難者のマナーの悪さが取り上げられるようになったからです、原発避難者は宮城や岩手の避難者と違い、東電からの賠償金があり酒場やパチンコ店での遊興が報じられ始めました、「そんなお金がある人たちにボランティアは必要ないだろう」という空気が出始めたからです。
 双葉郡-大熊、富岡、双葉-は原発の町で、避難者の多くは家族、親戚に東電関係者がおりましたし原発で町が潤っていたことは事実です、その上で、原発の恨み言を広言する人への不快感もありました。
 本宮の活動は私が川俣の活動に参加したことがご縁での活動と申し上げましたが、これが双葉郡に対する活動であったなら参加しなかったと思います。
 震災後の私の活動は障碍者団体と、公務員の方に対してのものでした、公務員の場合、いろいろな制約があり、公表も記録にも残さない条件で活動しました(もう時効ですよね?)そのおかげで、本宮でこんな活動をしたいです、となったとき、社会福祉協議会、市役所、子育て支援NPOの方々が知り合いだった為、スムーズに事が運びました。
 本宮では、現在年3~4回のペースで主に小児鍼と伝統鍼灸の普及を目的とした活動を行っております。
 福島県の固定メンバーは7名、福島県小児中医普及会が主体となり、毎回30~40名の方が利用いただいております。
 仙台大師はりの会、福島県鍼灸師会などの協力をいただきながら、少しでも鍼灸の普及に繋がればと思います。
 遠方の方からみれば、福島はなにか特別な印象があるかもしれませんが、大多数の住民は普通に生きています、花粉症や風邪でもなくマスクをしている人はいませんし、公園では子供たちが遊んでいます、スーパーの地元産コーナーでは福島県産の作物が並び多くの方が買い求めております、息子の学校にも札幌や岩手からの転校生も来ています。
 モニタリングポスト(線量計です)を気にする人もあまりいません。
 福島を応援していただけることは大変、感謝しています。
 もし可能であり、願わくば、自主避難者の方だけでなく街を普通に歩いている人々と話をし、福島の現状を判断していただければ嬉しいです。
 地域支援ネットでの雑談のなかで、地元の鍼灸師と
「俺ら、援助される側なの?」
 と思いました、原発事故の影響で、直後は売り上げが激減しましたが、東電からの保障で、正直に書くと200万ほどのお金が出ました、ありがたくいただきましたが、なんの保障もなかった宮城、岩手の被災者に申し訳ない気持ちで一杯になりました。」

 震災やボランティアに関連して、大変興味深く感じたことをいくつかご紹介させていただきます。
 鈴木先生とお話ししていて、「病」「障害」について、「ああ、なるほど!」と感じたことを。
 先生はいろいろな障害をお持ちの子ども達の治療もされてきたのですが、「障がいを持つ子が、養護学校から普通の学校、支援学級から普通のクラスに移ることが、必ずしも幸せとは限らないんですよ」とおっしゃった。
 治療すると、知能指数が上がっちゃうので、それで普通のクラスの方に移るんですけど…と。
 親は喜びますよ。でも-
「暴力的・多動・友達ゼロ、という3つが揃っていると、子どもは結局不登校になり、親も潰れてしまいます」と。
「学校は、親が子どもをより良くするために入れている」だから、「暴力的な子どもだったり、多動で授業の邪魔をしたりする子は受け入れてもらえない」
 周囲の理解とは言っても、それは難しい。理由もなく殴ってくる子と親が関わらせない。約束を平気ですっぽかすとか常識的な行動が出来ない子どもを、子ども達が友人として受け入れるのは困難だ。
 でも、と先生は非常に興味深いことをおっしゃった。
「これを食べれば今の障害がなくなってしまう果実があるとしたら、それを食べますか? と聞いても、6割の障害児は食べないと答える」という。
 つまり、人間は、「それが良いものであれ悪いものであれ、身に備わった‘もの’を手放すことが怖い」のだと。
 鈴木先生自身、それを無意識にしろ「こういうことか!」と実感された経験がおありになる。それは、他県の方と何気ない会話をしたとき(新幹線の中で隣に座った大阪人など)、どちらから? と聞かれて「福島県です」と答えると、「ああ、大変でしたねぇ!」とものすごく同情され続けてきた。それが、年数が経って、あまり反応されなくなってきたとき、どこか寂しさを感じてしまっていることに気づき、「ああ、これがそういうことか」とハッとされたのだとか。
 それから、こんなこともおっしゃった。
「恨みを抱いた人間から、ヒトは離れていく」と。
 恨み―。
 これは、病に関することばかりでなくて、結局、人災と言われた原発事故に関してもそうであり、つまり、恨みを抱き続けるとは、自らは被害者であると暗示を入れ続けることであり、それは誰にとってもとても悲しいことではないかと感じた。悲しい場所に、つらい場所に、永遠に留まり続ける。その痛みと苦しみを永遠に味わい続ける。
 もう、前に進もう、と鈴木先生はおっしゃりたいのだと思った。過去は変えられない。人は変えられない。変えられるのは今これからと自分だけだから。

 震災のまさに当日は、どこで何をしていらっしゃいましたか?
 という質問には。
「ここにいました。患者さんを一人終えて―」
 とにかく長い揺れだったと先生はおっしゃった。治療院の壁にひびが入っていくのが見えて、道路が割れていくのが見えていた、と。
 揺れのすさまじさを目の当たりにされたのだと思った。
 そして、引き起こされた原発の全電源喪失という闇の数日間。フクシマ・フィフティが日本を守るために死闘を開始した瞬間だったのだろう。



「ゆめneko」プロジェクトをゆるゆるとスタートしたいと思っております。無理は出来ないし、とりあえず目の前にあって手が届くことを淡々と続けていくために! お心遣い、心より感謝です♪